「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」、音楽仲間の友人が勧めているので、観た。結論からいうとぜひとも今年ベストに入れたい傑作だった。正統的なドキュメンタリーの造作でありながら、ここまでいろんな感情を喚起させてくれるとは。
ファッションデザイナーの天才がジョン・ガリアーノなのだけれども、酒グセが非常に悪くて、しかも悪いのには悪いなりの事由があって――という話がまず、ある。
そしてどうでもいい街角の酒場で、自分でもおもってもいないような、反ユダヤ発言をしてしまう。それが問題となってハイブランドのデザイナーの仕事をクビになってしまうっていう、ごく簡潔すぎてまとめになっていないまとめ方をすると、そういう話ね。
人間の生なり、発言ひとつであっても、簡潔になんてまとめられないんだ、複雑な背景があるわけだ。
ナオミっていうモデルは、むかし、日本で変に流行ったけれども、いい女なんだねぇ。なにがあっても庇う、ビデオに撮られた醜態なんかみない、みなくても実際にみてきた、って。
本当に、いい女だ。
多様性社会だとかいうけれども、そんなものは全然ウソっぱちで、インターネット的な、安っぽい公徳心がかつてなく強まってきているのが今の世紀だ。
この点は、ほんとうに、注意をはらった方がいいよ。
いつのまにか自分もそんなものに気をとられないよう、感性がむしばまれていかないように、気をつけておいたほうがいい。SNSなんて、見ているだけで、足許が狂っていくからね。
たとえば、エズラ・パウンドも、セリーヌも、今読む人がすくなくなってきている気がするんだよね。
ジュネは大丈夫というところがあるか……ヘンリー・ミラーなんていうのは中小の出版社が一時期がんばってコレクションを刊行していたけれども、ひさしく読まれていない。薔薇の十字架三部作、読んでいるひとがどれくらいいるか……。
じつはセリーヌに寛大だった時代って半世紀くらい前ですよ。六十八年のあと、しばらくくらい。
それが新世紀に入るとどんどん風当たりが強くなっていって、今なんか、最低じゃないのか。
だからこそ旬なのだ、ともいえるが、世間一般的には、そうではないわけだ、公共の利益のためには。
だからナオミ・キャンベルみたいな、いい女がいなくなっていく時代柄だ、ともいえるわけだ。困ったこった。
中野好夫が「悪人礼賛」って書いているけれどもね、従来、人間っていうのは不道徳であるからこそ、悪っていうものがわかる、道徳的であれるようにできているんだ。
だっておまえ、川の清流をまもれ、とか、新宿東口でよりよい社会を、とか、やっているやつに、碌な人間がいるわきゃないもの。そういうやつらは裏でなに考えているかわからない。
その点、悪人には、屈託が、裏表がないっていうか、くっだらない「裏」を持つ必要性がないんだよ。
ちょっとした盗みを働いたからこそ、盗みのワルさ、なんだこれくらいのことか、っていうさじ加減がね、わかる、それっていうのは人間の機微に通じるっていうことでもあるんだけれども、今みたいなインターネット時代の人間たちにゃ、そもそも、その「機微」っていうのがなくなってきちまってる。
女に非道い仕打ちを働いてこそ、やっちまった、あれはよくなかったな、って痛悔をして、人間として一人前になっていく、味が出ていく、はずなんだけれども、今は若いうちでもそんなことをしたもんなら、SNSでたたかれるなり、なんなり、させられちまう。
非道いことなんて、若いうちにどんどんやっておくべきなんだよ。
けしかけているわけではなくってね、自分の裁量で、やりたいようにやればいい。
やりたいようにやるためには、道を踏み外したことに、ちょろっと手を染めたりしなきゃ、なんなくなるからね。
小説なんてもん書いていて、それが生活や、街あるきの中心になっていたら、迷惑なことだってそら、しますよ。
そんなこと一つ許されない、「道徳的」な素晴らしい世の中だ、っていって、結局多様性だなんだいいながらみんな、みんな、おんなじような顔になっていきやがる。
これは非道い状況だぜ。
天才っていうのが、生まれにくい世の中ということになる。
だから、映画に強引に絡めていえば、そういう話だわな。これ以上、世の中が退屈になっていったら、変な風にガス抜きしていくしかないやつらが出てくるわけだから、おっかねえんだよ、却って。