本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

電子書籍刊行のご案内

 いつも当blogを拝読いただきありがとうございます。
 それぞれ対となる中篇小説「ゆふぐれ」(2023年9月に完成)「聖婚尽きるまで」(2024年3月に完成)を十月に電子書籍(kindle)にて刊行する予定です。なお、八月十五日には鬼生田貞雄の「黒い羊」、九月には「鬼生田貞雄研究」と短い小説をそれに先駆けて刊行いたします。今年いっぱいは筐中の完成済みの小説の電子書籍化を毎月、続けてまいります。それ以外にもポルノ小説などを同時併行で書いているため、当blogの更新は頻度が落ちる可能性がございます。あしからずご了承くださいます様。

 鬼生田貞雄「黒い羊」刊行(8/15)のおしらせ - 本とgekijou

 伊藤千広の活動を何卒よろしくお願い致します。

 

私は言語で歌いたい

 ふだん、意識の水面に浮かび上がってきたたよりなげな言葉などというものを用いて、私たちは交流をする。
 数寄屋橋辺のフレンチで、やわらかな鴨肉をよく味わいつつ咀嚼をする味覚であれ、冬至からしばらく経って取り出し、たしかめる、外套のカシミア地に手をすべらせる触覚であれ、私たちはそれらを言語の活動によって、豊かたらしめる。またはその感覚の豊かさを、言語化をすることによって、再確認をする。それを、おもわずしていざるを得ないのがにんげんである。私はそう理解をしている。
 だがひとたび人と人とが関わり合いをもち、発話をするその段になると、意識の水面に浮かぶ言語は果たして、自分の本心よりそれが成るものであったのか、たよりなげで、浮つき、げんに私たちのたいていは、たとえば親しかった人物と話せば話すほど、別れたあとになって、なにも話せていなかった、というさびしげなあの現実との直面をしいられる。
 ときには私たちは、敵対する相手と向き合わなければならないこともある。
 互いに反目する同士で発せられた、その言葉は、無力なままに終わることが多い。
 そんな時に、私は、他者と他者との関係性とひしぎ合いのなかで、一体に正しさ、というものがどこにあるのか、その所在すらもが失われていく感覚へと陥る。正しいものなどないのだとする、言語活動そのものを手放すかのごときシニシズムとは、私は相容れない。または、自らを肯定的に捉えて自分は正しいのだ、といった倨傲を身につける、むなしさ。
 どうあれひとは手前勝手であるほかないのだとしたのならば、ひとは、そのむなしさと付き合い続けていかなければならない、それは、一生涯において続いてゆかねばならない言語活動なのであったから、私のことを、途方に暮れさせる。
 正しさをめぐる正しさ、そのようなものがあったのだとしても、目を凝らして考え出したのだとしても、私はそのような綺麗なものに付き合いたくはない、と感じるのだろう。
 私は怯えているのだ、言語に、言葉に、詩に。そこに他者というものがひとたび導入されたとたんに、言語、言葉、詩は、私を私たらしめている基盤それ自体にかかわる、動揺をもたらし、精神の危難へと追いやる。
 そして私は求めている、危難の崖っぷちに追い立てられた、言葉が言葉ではなく、悲鳴のごときもの、ついに音へと昇華をされる、そのせとぎわを。
 私は言語で歌いたい。
 ずっとそれを求めてきたのだったから。

伊藤千広official - YouTube

わが受肉に就いて

 想念は、いつも清らかさを裏切らないものだから、私たちの生活はイメージを思い描いてしまえばしまうほどに、みじめたらしく、猥雑で、自堕落だ。紙くずが畳の上に散らばり、コーヒーカップの内側はたいていは黒ずんでいて、抜け落ちた髪の毛は、フローリングの床の上にはしたない軌条を描いている。どれだけ綺麗な音楽を流していても痰が絡まった咳は、些少な身体的反応としてやみがたく放たれねばならず、人間は人間として生まれた以上は、便所を汚し続けていなければならない。思い描いていた想念の、理想の、あの清らかな世界をつとめて把持していれば、いるほどに、私たちはそこから滑落をきたし、この不可思議な、生き物くさい地獄に日常性の名前を与えて、より明確な地獄のかたちを与えていかざるを得ない。私たちが朝を迎えて夜、ねむるまで続くこの混乱と猥雑に比すれば、死という石の如き一個の事実、それはこの地獄の喧噪に対して静か過ぎ、地獄を描いてみせた筈の「表現」はあまりにもスタティックに過ぎる。額縁が、絵を殺し、文字それ自体が、文章を殺す。だが幸いにして、それらはモノではない。テクスト論者の真似ごとはよそう。
 時間の運行をともなって確実にやってくる、死というありありとした殺意、それに捧げた熱い、心の真ん中からの、殺意に対する殺意がペンをつかむということだ。

 ペンの使い手のマネ事はやめにしろ、なぜならそれ以上己の無力さに
 耐えられるか、全てを賭けれるか、勝てるか、待てるか、ここに立てるのか
   ブルーハーブ「ペンと知恵の輪」

STILLING STILL DREAMING

STILLING STILL DREAMING

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 私たちは人間として受肉をし、そして、受難はかならずしも苦難ばかりを意味しはしなかった。呪縛は、祝福でもたしかにあった。女たち。嫌みな給仕たちの振る舞いを目に愉しみ傾ける甘美な酒。レコードの針音。信頼できる友。
 師匠は成長はゆっくりとやって来る、と書いていた。
 そういうことだったんだ、とうす寒い、不安な昼の縁台の上でもの思う。
 私のその理解では、成長の多くは悪い成長、ゆがんだ成長のしかたであり、その枝葉を切り落としながら、正しい成長を自分で見とどけ、守らなければならない。死守しなければいけない。
 正しくなければ意味がない。
 優しくなければ価値がない。
 ねがわくば、私の透徹はより深く、深くへと、おちていき給え。

黒い羊

黒い羊

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「ゆふぐれ・聖婚尽きるまで」刊行。宣伝と、おもうこと。

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「ゆふぐれ・聖婚尽きるまで」を刊行しました。
 現在はペーパーバック版のみの販売となっておりますが、すぐに、安価な電子書籍版も販売いたしますので、環境がある方はそちらもご検討くださいます様。

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  そのあとに書いた「聖婚尽きるまで」の完成度はともかく(もちろん私なりの最善をつくしたのではありましたが……)、「ゆふぐれ」の文章をもって、自分が文章的には自立したものを持っている、と私は実感をして、アマゾンで本を販売をする、という判断に踏み切りました。アマゾンで本を販売しているひと、というのは様々にいらっしゃいますが、私の場合には、そういう私なりの理路と決定とがありました。その点については詳述はさけますが、つまり私がアマゾンで本を販売をするようになるためには、一定の抵抗が要されていた、そういうことです。

   □

 本を売る、ということについて、私はよくわかっておらず、そのわかっていない、ということをよく知ることになったのが、鬼生田貞雄の小説をおなじく、アマゾンで販売をした時のこととなります。
 なにかを売るということは、知名度をもった人が売るのでなければ売れない、というあたりまえのことを、私は子供のように呆然として、知ったのです(それでも鬼生田貞雄の本は売れたほうなのですが――十人くらいに読まれている)。どんなものでも文学賞をとり、そして芥川賞という大きな賞をとって、「有名」にならなければ、本は売れない。あたりまえのことです。
 ですが私はただ、書くこと、よいものを書きたい、書きたいのだ、とそればかりをかんがえて来たため、そんなこともわからなかったのです。
 あるいはバルザックの「幻滅」がいちばん嫌いな小説だ、という私の傾向も、そこには働きかけていたでしょう。

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 ユウチューブで動画を出したり、宣伝の動画をつくったりと、さまざまなことを試みながら、小説をだしました。結果として、ありがたいことに、予想以上には売れている、という状態となっております(ほんとうにありがとうございます。みつけてくれて、ありがとう)。
 すると、なにせ、なんにも知らない私ですから、書くということにかんしては、自分が正しい道を歩んでいる自信はあるのだけれども、――売ったとか、有名にならなければならないとか、そういう次元の話になると、これはなんなのだろうか、とたちまち自信がなくなる。
 本が売れると申し訳なさと、ありがたさで、いちいち、涙をこらえたくなるようにうな垂れてしまうナイーブさを捨てきれない。それもいつかは忘れ去ってしまうのだ、とおもうと、悲しいものです。
 ただただ、やるべきことをやること。
 小説を書くこと。
 来月は、伊藤整の墓参に、再来月は、鬼生田貞雄の墓参にゆくこと(いずれも命日なのです)。努力とされる努力をすること。みずからが努力であると信じる努力をすること……。
 ただ、そのようにあれるよう、天をあおぐように、自らに言い聞かせている、今、現在でございます。

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 「ゆふぐれ・聖婚尽きるまで」以降も引き続き、過去作のなかでも出してもいいか、と判断した作をまずは二作、発刊していく予定です。
 どうぞ、よろしくお願い致します。

 

「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を観て世相をなげく

「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」、音楽仲間の友人が勧めているので、観た。結論からいうとぜひとも今年ベストに入れたい傑作だった。正統的なドキュメンタリーの造作でありながら、ここまでいろんな感情を喚起させてくれるとは。

   

 ファッションデザイナーの天才がジョン・ガリアーノなのだけれども、酒グセが非常に悪くて、しかも悪いのには悪いなりの事由があって――という話がまず、ある。
 そしてどうでもいい街角の酒場で、自分でもおもってもいないような、反ユダヤ発言をしてしまう。それが問題となってハイブランドのデザイナーの仕事をクビになってしまうっていう、ごく簡潔すぎてまとめになっていないまとめ方をすると、そういう話ね。
 人間の生なり、発言ひとつであっても、簡潔になんてまとめられないんだ、複雑な背景があるわけだ。
 ナオミっていうモデルは、むかし、日本で変に流行ったけれども、いい女なんだねぇ。なにがあっても庇う、ビデオに撮られた醜態なんかみない、みなくても実際にみてきた、って。
 本当に、いい女だ。

 多様性社会だとかいうけれども、そんなものは全然ウソっぱちで、インターネット的な、安っぽい公徳心がかつてなく強まってきているのが今の世紀だ。
 この点は、ほんとうに、注意をはらった方がいいよ。
 いつのまにか自分もそんなものに気をとられないよう、感性がむしばまれていかないように、気をつけておいたほうがいい。SNSなんて、見ているだけで、足許が狂っていくからね。
 たとえば、エズラ・パウンドも、セリーヌも、今読む人がすくなくなってきている気がするんだよね。
 ジュネは大丈夫というところがあるか……ヘンリー・ミラーなんていうのは中小の出版社が一時期がんばってコレクションを刊行していたけれども、ひさしく読まれていない。薔薇の十字架三部作、読んでいるひとがどれくらいいるか……。
 じつはセリーヌに寛大だった時代って半世紀くらい前ですよ。六十八年のあと、しばらくくらい。
 それが新世紀に入るとどんどん風当たりが強くなっていって、今なんか、最低じゃないのか。
 だからこそ旬なのだ、ともいえるが、世間一般的には、そうではないわけだ、公共の利益のためには。

 だからナオミ・キャンベルみたいな、いい女がいなくなっていく時代柄だ、ともいえるわけだ。困ったこった。

 中野好夫が「悪人礼賛」って書いているけれどもね、従来、人間っていうのは不道徳であるからこそ、悪っていうものがわかる、道徳的であれるようにできているんだ。
 だっておまえ、川の清流をまもれ、とか、新宿東口でよりよい社会を、とか、やっているやつに、碌な人間がいるわきゃないもの。そういうやつらは裏でなに考えているかわからない。
 その点、悪人には、屈託が、裏表がないっていうか、くっだらない「裏」を持つ必要性がないんだよ。
 ちょっとした盗みを働いたからこそ、盗みのワルさ、なんだこれくらいのことか、っていうさじ加減がね、わかる、それっていうのは人間の機微に通じるっていうことでもあるんだけれども、今みたいなインターネット時代の人間たちにゃ、そもそも、その「機微」っていうのがなくなってきちまってる。
 女に非道い仕打ちを働いてこそ、やっちまった、あれはよくなかったな、って痛悔をして、人間として一人前になっていく、味が出ていく、はずなんだけれども、今は若いうちでもそんなことをしたもんなら、SNSでたたかれるなり、なんなり、させられちまう。
 非道いことなんて、若いうちにどんどんやっておくべきなんだよ。
 けしかけているわけではなくってね、自分の裁量で、やりたいようにやればいい。
 やりたいようにやるためには、道を踏み外したことに、ちょろっと手を染めたりしなきゃ、なんなくなるからね。
 小説なんてもん書いていて、それが生活や、街あるきの中心になっていたら、迷惑なことだってそら、しますよ。
 そんなこと一つ許されない、「道徳的」な素晴らしい世の中だ、っていって、結局多様性だなんだいいながらみんな、みんな、おんなじような顔になっていきやがる。
 これは非道い状況だぜ。
 天才っていうのが、生まれにくい世の中ということになる。

 だから、映画に強引に絡めていえば、そういう話だわな。これ以上、世の中が退屈になっていったら、変な風にガス抜きしていくしかないやつらが出てくるわけだから、おっかねえんだよ、却って。

 

たかが文学研究者(第四回)

 つまり、そもそもが「文学」というものが胡乱で、いかがわしいものとはおもわないか。
 私は大いにおもう。
 文学の文学性――それを心性にまで高揚させた言葉が、文学館の幟、文学賞のキャッチコピーなどには溢れている。「言葉の力」、「文学の力」、……こうした言葉に触れると、私は「想像の共同体」もかくや、とおもってしまう。
 たしかに、もはや、文芸誌などというものは過去の権威に寄りかかっているしかないのは、わかりきっている。
 自明である。
 新人賞を受賞をし、芥川賞を受賞をして、文学館の講演会などに呼ばれて「言葉の力」、「文学の力」ということを唱えていれば、一人前の作家、ということになる。
 だがそうした権威や制度のシステムに、レールに、反撥を仕掛けていくのが作家なるものの本分であったはずだ、と私はおもう。
 その意味では批評的でなければ、ほんとうの意味での「文学的」であることなどは、もはやできない。知的でなければ、文学が生まれようもない、ということは――もちろんそれは権威に取り入るための知的さというものとはべつなのである――、どうあれ不自由なことである。

 

たかが文学研究者(第一回)

三春町図書館閲覧席

 あまり人前で話したい話柄ではないのであったが、いわゆるルーツ探しというのをしていた頃に、私は現在の私の研究対象である鬼生田貞雄を、知ったのである。
 およそ役所以外になにもない田舎町までディーゼル車を走らせ、出向いて行って、戸籍謄本を明治時代まで遡れるまで遡って取り、蛇だらけのあぜ道を歩いては、メモを取ろうとした木陰では見たこともない蜂の大群に襲来をされながら、先祖を代々、遡った。
 三春町にある金剛力士像や、白馬像といったものを手がけた伊東光雲なる大工が、私の先祖に当たることを、そうして知っていき、その作業のひと段落ついたころに、三春町の図書館の郷土資料の棚を、ソファに腰掛けぼうっと眺めている時、ふと、手に取ってしまったのが鬼生田貞雄の「黒い羊」であった。それは天黒塗りの装幀からして、郷土資料の棚にありがちの自費出版の本ではないことが分かり、最初の一ページを開けば、それが素人の文章ではないことが、理解ができる性質の本であった。
 なぜ、その本がそこにあったのかは興味深い謎である。
 その当時の三春町の図書館の司書が、昔、田村高校の書架にあったものを図書館へと持ってきた一冊だというが、鬼生田貞雄の歿後、一年後の命日に、恩顧のあった二見書房から刊行された、私家版といっていいほどの部数(数百部という単位であったのは間違いがない)しか発行されていなかった筈の二見書房版「黒い羊」なのである。たしかに鬼生田貞雄は田村高校の出身であったが、三春町の鬼生田家の人びとですら彼が、そのような本を出していたことを、知らなかった。
 どうであれ、私は「黒い羊」を迷わずにその日、図書館から借りだして、原稿用紙で七五〇枚あるその小説をただちに読了をしてしまった。日本の小説に飽いていたころのことである。
 そうして、だれが彼のことを知り、本を図書室に寄贈をしていたというのか――それに対して、たとえば本田徳治という、鬼生田貞雄の従兄弟ならばそれがあり得る、すぐさまそう思い成すに至るほどに、今は鬼生田貞雄という作家の周辺について、私は明るくなっている。
 もう五年以上も鬼生田貞雄のことを追いかけているのであるから、当たり前といえば、当たり前のことなのであったが、曲折は甚だしいものであった。けして簡単な道のりなどでは、あり得なかったと、それを思う。

ほか、三春大神宮奉納白馬像などが私の先祖がつくったものとされる

三春駅にて、2018年

(犬の日記)八月一日

 才能などという言葉を信じないことだ。世界は才能をもとめているまでには甘くはなく、醜聞と汚れた金とを求めている。たしかに、汚れていない金など存在しない。ただし、多くの人びとには汚れきった金ほどに金には価値がある。彼らの間では札の色が明確にわかたれていて、綺麗な金ほど、はした金であると相場がきまっている。

 巷あふれる言葉など信じないことだ。せいぜいがコインのように裏と表としかない、薄っぺらいインターネット上の言葉は、人を喜悦に耽らせ、憤らせ、倨傲に満ちさせる、常習性のある麻薬だ。それは結構なことだと人は言うかもしれないが、その喜悦も、憤りも、倨傲も、フリー素材のように安っぽくて土台、本当の人生の荒波を前にしては使い道にはならない。

 微風のようにただいちど、香った一回こっきりの情感を理知的に展開をし、構成し、そこに評価と意味とを持たせる。どのような工学も適用できない不可思議な手順とやり口、ピンセットで摘出するような繊細でテクニカルな動きを、そうして作られた設計図を、タイプは無情にも台なしにしてしまう。ここまでは理解ができた。もういちどやろう。香った一回こっきりの情感を理知的に展開をし、構成し、そこに評価と意味とを持たせる。地図を描くのだ。天才のたどった手筋を読むのだ。才能などという言葉を信じないことだ。ただスタンダールや、バルザックのような、天才たちに触れてきた実感をのみ信じられる私のと胸の、この感覚はありがたいことだ。ありがたい、ことなのだ。

いわゆる「文学と生活」について(夜、ワープロを開けたら書かれてあった支離滅裂な下書き)

 都会の街場に出て、いろいろなひとと会って、話をしていると、彼は彼のバイアスのなかに生きていて、私は私のゆがみきったバイアスをもって、語っている、……。私たちは互いにかけちがう命運にあるのであり、同意や、納得や、双方の価値観のすりあわせのようなことは表面的なものに終始をしているのであって、そのなかで「まっとう」であることを維持する営みは、可能ではあっても、社交の場面、場面においてその「まっとう」さを瞬発力として発揮し続けることは、私は、人間の認識能力からいっても不可能である、とおもっている(もちろんそれは私に不可能なだけであり、私の認識能力がひとよりも劣っているだけなのかもしれないが)。
 SNSのような均質的な社会のなかでは、そのことが等閑に付されがちである。そこでは言葉という非常に想像的なものが、現実的な影響力や、支配力をもち、サーベルのように扱われているがためである。だが、言葉が社会を変革することは今後、不可能だろうし、対話などというものは「多様」な社会という名の無規範の社会のなかで、対話そのものの価値が擦り減っていくだけなのは、底が知れている。
 嘗ては「文学と生活」というテーマがあったものであり、これは構造主義以前、実際的な食べて、ものをみて、感じて、といった日常生活と、ペンを執って書かれたテクストとの関係なり補完性なり齟齬を、素朴に問うたものであったろうが、現代のような社会においては、生活の上に、「言葉」がテクノロジーと結託をしたきわめて強烈な支配力をもっており、同時に、本当の人生の上では、言語は依然として想像的側面が優位に立ち、ひ弱なのである。「文学と生活」というモチーフそのものが、古びている、というよりは、現代人に「生活」が、つまりはテクノロジーと人生の二重性を逃れた言語生活が、およそ不可能であり、その不可能性に立った上では、人間の道徳性や、判断力といったものすらもが、テクノロジー的な言語によって回収をされてしまうこと、「まっとう」であることをあたかもSNS的な空間――仮に場所論的アナロジーをつかってそう呼ぶが――以外では降りていなければならないことが、問題として前景化されるべきではなかったか。

くり返し、「小説家」について

 ページを更新するごとに微増していく電子書籍の印税をみていると、自分は一体なにを求めているのか、わからなくなっていく。それは私は十代のころから、小説家なんどになりたいとおもって来ていたのだったから、身体の底部から、わからなくなっていってしまうのである。これが欲しかったのか、おまえはつまり金が欲しかったのか、と自問すれば、ただちに
「違う。そうではけしてない」
 という返辞がそれは、出る。
 大体私が、本当に金がほしい人間であったのならば、小説などを書くのは止していただろう。金が欲しい、ということを追究をしていけばすぐに、小説、などというものから手を引きたくなるのは分かっているからである。
 では、こうか、
「きみは周りの人間の視線をあびたかったのか」
 違う、違うのだ。
 これは印税の伸びが悪くなって、なにがいけないのか、と不審感にさいなまれるとそんなことを自問しがちなのである。なにがいけないか、もなにも、そんなものは知名度がないからであって、私が有名な人間であったのならば、あるいはSNSのインフルエンサー程度のものであったのならば、そこに表示をされる金は幾らもまわっていたはずなのだ。わかりきっている。
 ただ書きたいだけなのか。
 小説というものを。
 それだけが結局、諦念のように、振り仰いで天井をみながら、嘆息まじりの本心としてついて出る。
 ある意味ではそれは、人間としてはからっぽ、ということなのであったろうが、だとしたのならばからっぽでない人間など存在しないではないか、ともおもう次第である。そして、そのような反駁が、ひとに、自分に、意味のないものだということを私はただ、知っている。
 ただ知って、ただ生きている、この「ただ」の希薄をされすぎて透明となった透明さ。
 不可思議な透明色を私はまもなく、手懐けてしまうのだろう。それがどういうことなのかはよく、注意を払って、理解をしていきたいと望んでいる。

解離性障害と私たち(第二回)空腹の感覚について

 弟子にとにかく腹一杯くわせたがる師匠をもった落語家について書いた本で、満腹と空腹とでは意外にも、満腹のほうが苦しい、という記述にふれた時に、嗚呼、このひとは本当の空腹を知らないのだな、と嗟嘆をしたことが私にはある。なげかわしいのは、無知ではなく、本当の空腹を知っているという知識というよりは、私の身体知であり、空腹という言葉から喚起するイメージであり実感であり、その重量というものが、平均がどこいらに位置していたのかもわからないまでに、平均からずり落ちている、というそのことなのである。
 けだし、物心ついてから実家を出るまで、私にとって私の胃袋とは苦痛の種でしかなかった。
 それは胃から中心に、私の判断能力を鈍くさせて、胃酸だけになった器官による痛みによって、私のことを身動きをとらなくさせる宿痾であった。小学生に上がって、中学生に上がり、身体が痩身ながら人並みの骨格を備えていくにつれて、その空腹感がひたすら重たくなってゆく。それだけで精神の病をもつに至るのに必要充分というほどの栄養の不足であった。
 空腹は心身の鎖である。元気の盛りの小学生だというのに、空腹によって指一本動かすのにも労力を費やすことを思い知らされ、通例のごとく書物に逃れようとしても、視線の先で活字を軽く、上滑りをさせていることしかできない。地べたに寝そべった態勢で、ひたすらに空腹という激痛を堪えて、時間が経過をするのをただただ待つ。それでなんとか眠ることができれば、成果としてはじゅうぶんだといえる――あまりにも痛くて大抵は、眠りに就くこともままならないのであったが。
 それであるから、これは食べものの恨み、などという軽口を叩かれたくないものだが、私が初めてかかった星ヶ丘病院というところの、当時、まだ若かった三浦至という精神科医は、二十代の私がその往時のことを振り返って、
「そのころはとにかく、腹が減っていました」
 とぽつりと零すと、そんなことは精神医学とはなにも関係がない、という風に失笑をしていたのには、二十代の当時にせよ、その不当さに驚かされた。
 彼は私が統合失調症の母親のもとに育ち、教員から虐待を受けていたのだということを知っていたはずであるのに、私が虐待を受けている、という事実をなぜか信用をしなかった、信用をする必要が診断上、必要がないと判断をされた。虐待や、トラウマ、というものがあるということに、医師として懐疑的であったというか、そのようなことを扱うのが精神科医ではない、という自認があったのだろうと、そう思い返される――一字一句おぼえているが、彼の書くカルテにはこう書かれていた、「いじめられていたらしい。」。
 私は統合失調症の母親に産まれ、妄想を吹聴され、当然のことながら、物心つく前より、食事など満足に与えられたことはなかった。率直にいって、狂った人間が、なぜ、子どもに食事を与えようと考えるというのだろう? そんな保証はもとより、どこにもなかったのだ。
 だが食事がなかったことにより、目前の人間の悲惨さを、目前にしながら存在しないかのように扱う想像力のなさを、まかなうことはできたようだ。そのころの三浦至という精神科医をおもうと、理不尽さにさいなまれるのは、どうも、そうした想像力の機能を私がもっているがゆえらしいのである。

「いいね」について

tabelog.com

 SNSは書籍やCDのための金を稼ぎ、メシの写真を載せる以外の使いみちをしないのが、ベターだとおもっている。だいたい、フランツ・カフカが日記にこんなことを書いているヒマがあったか? 明日、死ぬかもしれない帝国下に生きて、自作をめぐる絶望の雲をいつも頭上にうずたかくさせている人間が、「SNS」だなんていう言葉を安易につかうものではないのだ、たとえハプスブルク帝国に光ファイバーのインフラがあったとしたも、の話として。「X」以外の「SNS」だとこのブログもコメント機能などがついている以上は広義の「SNS」に入るのかもしれなかったが(知らない)、「食べログ」をつけていて、あれはたしかに「SNS」なのであっただろう。最近だと「巌哲」、思い出深いものだと銀座の「風見」やこれはラーメンではないが交通会館の「交通飯店」、昔は恵比寿にあった鯛出汁ラーメン、錦糸町の牡蠣出汁のラーメンなど、おもに旨いラーメンをたくさん食べてきたものだと(ラーメン以外は、蕎麦なら「よし田」、フレンチは数寄屋橋の「オーバカナル」、決めた店をつくるのがポリシーである。あんまり、食べ比べみたいなことはいい大人なのだし、しないのが心地良い)回顧される。ディスプレイに映る文字がゴシック体の横並びのレイアウトに滅菌されながらも、思い出とか、そこにあった情感とか、あるいは街歩きの喜びは、本物であったかと確認ができる。

 田舎には「福島ラーメン組っ!」みたいなのがあったりしてクソ不味いラーメンを食わせる店しか存在せず、美味しいものがないからといってヒマを持て余して味覚が衰えるどころか「SNS」に感性を腐らせたジジイどもが沢山いるので、そういう奴等と一緒くたにされたくないから、私はこういう記事を書いたのだろう。クソ不味い田舎のメシを彼らが「SNS」にあげている間も、私は私のやるべきこととして、ものを書き、ただただ金を稼ぐ。「いいね」は通貨のための動線にしかならず、通貨はいちど手に入れた以上は、東京で買うレコード代になってくれるのである。そして金よりも大事なものがレコードや神保町の古書にはたくさん、詰まっている。たとえばカフカの絶望とかがそれである。

書くことは洩れなく「野蛮」である

 文章を書くというのは基本的には、野蛮な営みである。つまり、知的であるということとはまったく反対方向を向いた、文化的ならざる営み。
 なぜ、そうなったのかというと、書くべきものなどすべて、書き尽くされてしまっているためである。
 うたうべき情感が、自分固有のものである、自分だけが感じているものだから自分は叫ぶように謳い上げたいのだ、――これほどまでに、「歴史」、すくなくとも「文学史」への無学をさらけ出した欲求というのはないのであって、ひとまずは、その文化的野蛮さを、いかに自覚をできるのかが作家なるものの知性の要件となりは、する。これはなにも今に始まったことではなく、半世紀ほど前から、島田雅彦あたりもテーマにしていたことであったし、変わらない情況として、あるわけだ。
 どうしても書きたいものがあって、とよくひとはいうが、そんなものはすでに書かれているし、そしてどうしてもというのならばそれを速く書き上げねばならず、それを書き上げたあとになにを書けるのか、という問題もある。
 では、書くものがなにもないことを、あくまでも冷静に、それをないものとして、緻密な工具のような文章で構築をしていく――これも、やり尽くされたような現代文学の常套手段であり、基本的には、退屈なのである。
 そもそもが、そうした状況的な言葉を持ち出さずとも、書くということは乱暴なことなのではあった。ひとの思い、情念、あるいは思考というのは、本来ならば曖昧で、ちぐはぐなまま、ひとりの人間のなかにあるのであり、言語という想像的なものをもちいてそれを一つの言葉に、強引に束ねてしまうのであったから、ひとはそれを創造的であるなどと無責任に称揚をしたりはするものだが、まあ、ただ書かれたという時点において傍若無人ともいえる、身勝手な振る舞いなわけである。

推敲について

 推敲は、原稿を実際に書いていく行程よりも、ともすれば時間をつかう行程であり、すくなくともひどく憂鬱な行程である。
 できたばかりの初稿段階の文章は、ボロボロのズタズタであるのがふつうである。誤字脱字が散見されるのはともかく、てにをはがなっておらず、ところどころあとで単語をさがすようにという指示なのだろう、「  」と空白の部分があり、ひとに読ませられる状態にはない。ウェブ小説ではないのだから、これではいけない。
 それを、A4のコピー紙に印字をして、ひたすら読み返していき、――これはごく最近きづいたことなのだが――私の場合は大体「七稿」にまで赤ペンを入れきると、臨界点を迎えた、というつもりになる。
 百ページの原稿であったのならば、七百枚の紙の束ができあがるころ、「なんとかこれでいいな」というか、「これ以上は赤入れても変わらないよ」というところまで、もっていける。――もっていける、といったが、もっていってしまうことが、はたしていいことなのか、悪いことなのかは分からないが、ひとまずは一般的にみた上では、初稿段階よりもマトモなものには、なっている。
 そしてこっちはうがった一般論ということになるが、推して、敲くことに、基本的に終わりはないはずだ。一体、修正や、改善される、といっても、文章の場合に「修正」や「改善」といったものはなんであるのかといえば、正解などはない。私の場合にはそれはせいぜいが、自分の身の丈に合わせる、あるいは作品をあるべき作品の身の丈に合わせる、ということでしかない。
 そうやって作品、とされるもの、を作り上げた次は、こんどは郵便局に、その紙の束をもっていって出版社なり、賞の投稿先に、送ることになるのだが、これが私にはまったく分からないし、なにかの手違いで、真冬の墓地に迷いこんだような気分になってしまう。しかもそこは郊外の墓地なのだから、酒で安易にまぎらわすわけにもいかないのだ。
 書くという、私室でおこなわれてきた、きわめて私的なことを、最終的には郵便局、などという切手を貼ってものを送る場所に勤務をしている、局員、というひとに渡す、というその感覚は、私にとってすなわち違和感であり、ひとつ進めて、そんなことを堂々とできてしまう自分の料簡が、とんと分からなくなる。当然といえば当然なのだが、なぜあんなにも、ちぐはぐで、厭(嫌ではなく厭、なのだ。とてつもなく厭、なのだ)なのであったのか……。
 最近は、パートナーに宛名書きまで書かせて、送付するという作業のすべてを彼女に一任することにしている。それでも郵便局の駐車場にとめた車の車中で、私は、耳をふさぐように「ぬぅ……」となっている始末である。

離人感と形而上学的な美

 スティーブ・ライヒの音楽のモチーフが「不在」であると知った時に、先にやられてしまった、とすごく悔しかった。
 私は、「本格小説」に重きを置くいわば近代的人間であったから、「現代文学」的なるものとなんとか折り合いをつけていくためには、そうした側面を、先鋭化させていけばいいのだったろうが、自分ではそこに、とうに飽きている部分がある。
 というのは、それは――「不在」にひかれる感性というのは――、私生来の離人症的な感覚をもとにして、出てきたセンスだからであろう。離人症者であること自体に、飽きている、というか。
 つまり泡のように音が乱れ打ちされていけば、いくほどに、なにかの不在が際立てられ、空位としての空位の、輪郭が定められていくかのような事態。
 繁華街を歩いていても、それは感じ取られることだ。
 銀座の数寄屋橋交差点、歌舞伎町の人波のなか、あるいは日比谷の劇場のなかであってすらもいい。
 地元の、地方市街地では、感じ取りにくいのは、なぜであったか。
 そこには、多くの人が雑踏しており、人と人との動線が複雑に絡み合い錯綜すれば、するほどに、「私」は――ある種の絶対性にも相似た性質で――決定的に「ひとり」であり、しかしその私であれ離人症的感覚によって、存在しないものであるかのような事態。「私」の孤立が際立てられるほど、それは、自己愛的感覚ではなく、「不在」のたしかな質感へと変じていく事態。
 私は、そうした事態と、その事態が喚起するある種のポエジーに、生来の気質として、鋭敏であらざるをえなかったようにおもう。