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「もっとも確実なもの、つまり直接的なもの」、または離人症者と創造――カミュ「シーシュポスの神話」

 カミュに「不貞」という短篇がある。
 夜の浜辺に夫婦ふたりが横になっている。夜空の星辰に思いをはせた妻が、その時にふと、かくのごとく星に惹かれている自らの心の動きこそが「不貞」なのだ、と云いだす。
 ひととひととのなまぐさい筈の、関係であり感情とが、波打ち際の夜空に浮かぶ星へとその時に、浮揚をし、昇華されている。
 論理としては分かるし、実感としてもそのような体験を私は幾つももっていたかもしれない。
 だが、なおも人間が人間と関係を切り結び、競い合い、喋り続ける、その汚れた世界においては、そのような反省とは形而上学的とされる地平の上に、乗ってしまう、あれが不貞であったのだといくら弁疏しようとも、現世的なおしゃべりに丸め込まれ、懐柔され、還元されてしまうのは云うまでもなかったはずだ。
 離人症であることをカミングアウトしている杉本博司の、恵比寿の写真美術館の再オープンの際の「ロスト・ヒューマン」展において、――世界が滅び、科学者や、芸術家たちの手紙が書き残されている展示構成のなかで、どの手紙にも冒頭に記されていたのが
「きのう、世界は終わった」
 というものであったが、カミュの「異邦人」にしろ、標題からして、離人症的である。
 もちろん表現者、分かりやすく云ってショー・ビジネスの世界に生きる者たちというのは、多かれ少なかれ離人的な性質を引き受けねばならない。
 あなたが書いた文章を、見も知らないだれかが読んでいる事。
 インターネットとやらがいかに当たり前のものとなろうとも、この事態が離人的であり、つまり本質的にはというか、実存的に不自然なことであるのに、ちがいはないはずだ。

 俳優は滅びやすいもののなかに君臨している。周知のように、俳優の栄光はあらゆる栄光のうちでももっともはかないものだ。すくなくとも、ぼくらの日常会話のなかではそういわれている。だが、いかなる栄光もすべてはかないものなのだ。シリウス星の観点に立てば、ゲーテの作品さえ一万年後には塵埃と帰し、その名前も忘れられるであろう。もしかしたら、ぼくらの時代の《証拠品》を捜す考古学者たちが数名いるかもしれない。こうした考え方は、これまでつねにひとに教訓をあたえてきた。この考え方をよくよく深く思いめぐらせば、ぼくらの不安動揺は、無関心のなかに見いだされるあの深い高貴にいたり着くだろう。いや、なによりも、このように考えることで、ぼくらはもっとも確実なもの、つまり直接的なものに専心するようになるだろう。
 カミュ「シーシュポスの神話」清水徹

 自殺という主題こそ哲学のもっとも本質的な主題である、と明言をしてはじまる「シーシュポスの神話」において発揮されているそれを、小説家の野蛮さであると断じるのは容易い。カミュの断定はあまりにも大胆に過ぎる。そして今引いた文章も、大胆きわまりない。
 ここでは、栄光とはどのようなものか、それさえをも単なる日常生活の延長線上にある、喜びや、人間にとってのたえざる興味関心といった地平から離脱させたる、「シリウスの星」の下で測られている。カミュの云いようがいかに婉曲であっても、カミュの云っていることはごく簡明で、力強い。
 それは、単に眼にみえないものを指して云っているのではなく、そしてまたおそらくは絶対性のごときものを指し示しているのではない。
 現実感を喪失した身体からこそ垣間見えるかのごとき、栄光なきあとの栄光、かつて栄光と呼ばれていた栄光の影のようなもの。
 フェルナンド・ペソアの書物なきあとの書物が実現をはたしたような、透明な祈りのような創造が、そこでは力や意志のように――自覚されているかはともかく、認識をされている。