本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「止まらんか! 青二才」スタンダール、ボードレール

 出先であるから私の推挙する古屋健三訳ではないのだが――「ワーテルローの描写」は何億回と参照し続けられるフランス文学史というよりは世界文学史上でもっとも高名なシークエンスである。

「こらっ、止まらんか! 青二才」と、軍曹がどなりつけた。どなられてみると、なるほどすでに将軍たち右手二十歩くらい前に出てしまっていて、その方向を将軍たちは望遠鏡でちょうど眺めているのだ。で、その後方数歩のところに止まっている軽騎兵たちの後尾へ、割りこんで行こうとすると、将軍たちのうちの最も太った人が、やはり将官のとなりの男に、威厳のある、またはほとんど叱責するような調子で話しかけているのが見えた。将軍は口汚くののしっていた。ファブリスは、好奇心をおさえることができず、例の牢番女から、けっして話すなと注意されていたにもかかわらず、短い正確なフランス語の文句をまとめて、となりにいる兵隊に話しかけた。
「あの、となりの人を叱っている将軍は、だれですか?」
「だって、ありゃ元帥だよ!」
「なに元帥です?」
「ネー元帥さ、ばかだな。いったい、君はいままでどの隊にいたんだ?」
 スタンダールパルムの僧院生島遼一

 三人称で描かれながら、その筆致は、主人公が戦争のなかにいるのにもかかわらずに戦争の状況のことをまったく分からない、その一人称的に混乱したありようが、いきいきと活写されており、兵隊一人にとって戦争とはかくなるものなのだ、という臨場感をまざまざと読者に喚起させる。それも、十全に小説的な、滑稽なおかしみとともに。「赤と黒」を併せて読んでみた時に、スタンダールという小説家のテクストは、そのページの細部に至るまで、惜しみなく小説作法上の技巧が用いられており、その時、文学史上の自然主義やらモダニズムやらといった区分が、ひとつの輝かしい天才のもとで、無力に砕け散るのをみる気さえする。実際、ファブリスの落馬の場面など、私には、ジョイスの意識の流れのテクストの成り立ちと大した懸隔もないようにも感じられてならない。

 秋の日の黄昏時は、何と心に滲みることか! 嗚呼! 苦痛なまで心に滲みる! なぜといって、それは数々の甘美な感覚を備えていて、茫漠たるうちに、而も緊迫した趣をも欠いてはいないから。蓋しこの永劫無窮の切尖にもまして、鋭く研ぎ澄まされたものはよもあるまい。
 ボードレール「巴里の憂鬱」三好達治

 散文詩であるし邦訳では精緻なニュアンスは伝わらないが、スタンダール的な世界、戦争や宮廷恋愛といった華やかな世界を諦めた、天才であることを諦めた地点から、文学を「言語」の表象の問題へと局限化させたことに、ボードレールの功績であり天才がある。文学史的には文化的爛熟に入った、すでに天才たちの「天才性」への自問といおうか、疑念が生まれ、素直なかたちでの天才は生まれなくなったわけである。ボードレールの詩の美しさは、そのようなコンテクストを離れて、ただ読んでいるだけで最上の美しさを湛えたそれであるが、それはかつてはすべては簡潔だった、天才は天才としてただそこにいたのだった、という豊穣の分だけ、そのひとあし先取りをされた諦念が言語的文飾として彫琢をされているがためなのだ。