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「ご主人様方が頭を悩ましておられる国の重要事」――カズオ・イシグロ、英文学

 イギリスの歴史は「文学」を不動産のように扱ってきた。それがために現代においても、英文学は活きがいい。カズオ・イシグロをその例証として引いてみたい。

 そんな夜、もし召使部屋に足を踏み入れ、そこで何が話し合われているかを耳にしたら、きっとどなたも目を丸くされたことでしょう。ゴシップなどではありません。上の階でご主人様方が頭を悩ましておられる国の重要事や、新聞をにぎわしている大問題について、召使部屋でも熱心な検討が行われている様をご覧になれたでしょう。もちろん、全国各地から同業の者が集まったのですから、仕事の話も大いにはずみました。ときには意見の対立もありましたが、だいたいは、相互の尊敬を基調にした和やかな雰囲気でした。当時、頻繁に屋敷を訪れた方々のなかに、ジェームズ・チェンバース様の従者兼執事だったミスター・グレアムや、シドニー・ディキンソン様の従者だったミスター・ドナルズがいたと申し上げれば、そうした集まりの様子をご想像いただけるでしょうか。
 カズオ・イシグロ日の名残り土屋政雄

 ヘンリー八世やクロムウェルがキーパーソンとなって興った修道院解散と、それに続いて起こった土地貴族の台頭以降、イギリス文学は基本的には、その「土地」によく根づいたものとして書かれ続けてきたといって、さして過言ではない。カトリック修道院が置かれてあった国の半分もの土地が国のものとなり、やがて経済的に追いやられた際にその土地を、そして貴族としての資格や紋章やらを、イギリス国家は国民に売るということをしてきた。かくしてイギリスの貴族とは土地貴族のことを指し、紳士とは土地を管理するもののことを指す。土地を運営し、それを子孫に相続をさせること、……実際問題、「嵐が丘」にせよ、ディケンズの「大いなる遺産」にせよ、「土地」や「相続」といったモチーフから、イギリス文学は切って離せない。
 ウルフやフォースターが所属をしていたブルームズベリーグループにおいても、当時隆盛していたいかにも貴族らしく振る舞おうとする土地貴族たち、保守派に対する反発があったのであったし、そのブルームズベリーグループと決裂をしたロレンスであっても、代表作のひとつである「チャタレイ夫人の恋人」において、主要なモチーフとなっているのが、やはり「土地」なのである。

 さらに少しでも考えた時、そこには土地問題からはじまる宗教的な問題があり、H・G・ウェルズバーナード・ショーら進歩派の論客であったカトリックの作家チェスタトンの「新ナポレオン奇譚」は今読むと、ウェルズのSFなどよりもよほどSF的な興趣に富んで面白いし、現代においても、ディヴィッド・ロッジのようなカトリック作家が、堂々とした国民的作家、大家となるところに、イギリス文学の凄みがある。グレアム・グリーンのような作家は作家になるためにカトリックの道を選んだほどである。
 であるから、文学というものを体系的に読みたい向きには、私はいつもイギリス文学から始めることを勧めている。「トリストラム・シャンディ」から始まるひねくれたユーモアの系譜をひとつの傍線として念頭に描いておきながら、なによりも「土地」(でありそこから派生する貴族の生活や、相続、宗教の問題)ひとつを押さえておけば、イギリス文学史全体は、非常にまとまりが取れており、それがカズオ・イシグロであれだれであれ、現代にまで続いている点でみても、それをアクチュアルな、いきいきとしたものとして享受する自由が、未だ私たちには許されているためである。