本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「かくて彼の人類に対する侮蔑は」――芥川龍之介・ユイスマンス

 芥川の全集を経年順に読んでいると、大体「偸盗」あたりでこの作家もここまで成長をしたのかと感心をし、「戯作三昧」になると堂々とした風格に、――作品の善し悪しとはまた別としても――うたれたような感覚になる。と同時に、芥川龍之介がどこまでも芥川龍之介であるのに変わりもなく、若死にした作家ということもあり、どこか気安くなってしまう、文学に触れる脅威に、スリルに足らないところが出てくるのは、こちらも年輪を重ねたのであったから、仕方のないことであったのだろうか。どうもそういう問題ではない、そんな筈はないのだ、という気がする。ならば、三十で死んだエミリ・ブロンテを引き合いに出せば、それは卑怯、とでもなるのだろうか? あるいはもっとフェアになる努力をして、こう云ってもいいだろう。

 かくて彼の人類に対する侮蔑は、いよいよ増大した。ついに彼は、世の中というものは大部分、無頼漢と低能児とから成り立っているのだと理解せざるを得なくなった。他人のなかに、みずからの抱けると同様の渇望や憎悪を発見することなどは、到底望み得べからざることであり、頽廃的な学究生活に喜びを見出す、自分と同じような知性にめぐり合うことなども、絶対に望み薄であった。また、作家や文士の精神に、自分と同じような気むずかしい、陰翳のある精神を求めるのも期待すべからざることのようであった。
J・K・ユイスマンス「さかしま」澁澤龍彦

 この主人公は、美術作品についても、文学作品についても、だれよりも造詣が深く、いくらでも蘊蓄をならべることができる。いっぽうで、蘊蓄を並べ立てたその舌の根も乾かぬうちに、それをもう自分は飽きたのだ、退屈なのだ、といって切り捨てることができてしまう。それは、世界中の、すべての芸術作品について自分は知り尽くしているのだ、とする、ある意味で正当性をもつであろう、知的な錯覚のなかに彼が身を置いているがためである。つまりそれは、そのような目利きがいて、そのような目利きのリアリティからしか生まれない感覚なり感性なりがあり、そこからまたなにほどかの芸術が、あるいは芸術作品への批判が生まれるのだとしたのならば、その知的錯覚をただ錯覚、として終わりにさせてしまうわけにはいかないのであり、それゆえにかかるディレッタンティズムは「ある意味で正当性をもつ」と、されなければならないわけである。
 活版印刷技術が生み出した、知的であるがゆえに本に憂い、憂いを担保する代わりに、知的であることを維持しようとする人間像。であるから、このテクストを読むに際してもっとも重要であるのは、一つの近代的な人間像を、書き手が三人称で書いた、ユイスマンスがデ・ゼッサントを作り出したテクストであるということだ。デ・ゼッサントは退廃的なディレッタントであるのだが、書き手であるユイスマンス自身はそれを、感性的な興味から、物語の主題であり、素材として扱っているのであり、ユイスマンスはけしてデ・ゼッサントではない。そして、彼が描き出したその近代人の肖像は、論理構造的にみても、芥川という作家をほぼ丸ごと包摂している、適確な像となっている事。

 二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子はしごに登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧むしろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
(中略)
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
 彼は暫しばらく梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……
 「或阿呆の一生

 すべての書物は、彼にとって読まれたものなのだ。そしてその晩年になって――それを正面から引き受けたのは、彼が知的に誠実であったがためでもあっただろうが――その倨傲、ディレッタントであることの虚しさ、自らが本当は、実際にはなにも得ては来はしなかったのではないか、という恐れに、芥川は取り憑かれる。「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という言葉に込められた寒々しさとはおおよそそのようなものであろうし、「河童」に広がっていたのはその不安や恐れを、深刻な痛罵や嘲弄に転調させた時、生まれた書き言葉であっただろう。勿論、「或阿呆の一生」は魅力的なテクストかもしれない。自身の作家としての、ディレッタントとしての、スタイルに亀裂が入っているなか、その亀裂から漂いはじめている、死の匂いは、いつもの芥川的に鼻につくところを有しながらも、たしかに甘やかであり、読み手を動揺せしめるだけの激しさもあったかもしれない。

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。
 それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた。