本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「この私が祈りを信じているのだろうか」――「春は馬車に乗って」、「天の夕顔」、「妻と私」

「駄目だ、駄目だ、動いちゃ」
「苦しい、苦しい」
「落ちつけ」
「苦しい」
「やられるぞ」
「うるさい」
 彼は楯のように打たれながら、彼女のざらざらした胸を撫で擦った。
 しかし、彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬の苦しみよりも、寧ろ数段の柔かさがあると思った。してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。
 ――これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方がない。
 彼はこの解釈を思い出す度に、海を眺めながら、突然あはあはと大きな声で笑い出した。
 すると、妻はまた、檻の中の理論を引き摺り出して苦々しそうに彼を見た。
横光利一「春は馬車に乗って」

 妻の死という切実な題材を扱いながら、横光の筆致はいつものごとく横光的である。桶谷秀昭氏などは全否定をしているのだけれども、私がこの短篇を愛好をする、横光という作家の立派であったことに感じ入らされるのは、ここには、今生起している、してしまったことに対して作家として今使える技法をといおうか、書き方を用いて処してゆくほかないのだというような、一種のまっとうさが全面に、現われているからだとおもう。小説家の残酷さや、怜悧な認識というよりも、とにかく書き切るのだという意識の働き、それが垂れ流しの日記のごときものではなく、一篇の作品となって結び目を作らせねばならなくなる、そのような性質の訓練をされた意識。
 一方でこのような文章もまた美しい。

 卓を隔てて端坐している彼女には、何か威厳のようなものが現われ、堅い決意を述べるその強さに圧倒されて、わたくしは、もう何も言うべき術もありませんでした。
 これが、わたくしが彼女と逢って、彼女から突き放された最初でありました。
 しかし、そのために、わたくしは今に至る二十幾余年、あの人のことを思いつづける運命を持つようになったのです。わたくしは生涯をかけました。これは、どうお話しすればよいのか。わたくしは、あの人を思う思いに、今もたえがたい命を生きているのです。
中河与一「天の夕顔」

 良くも悪くも、モダニズムによって毀損をされてしまったかのような人間の自然な心理の流れ。「腐った肺臓」や「檻の中の理論」によって回収されることのない、どころか自然主義の作家たちすらがしいて目を背けてきた、天然素朴な心理の流れを、端正に、ごく丹念な筆致で描き出すこと、それが表現になりうるのだと信じているこの作品は、それであるがゆえにメロドラマだと誹られる一方で、海外における評価を得ることができた、数少なかった日本の作品たりえたのである。その自明さに、彼のまわりの作家たちのいくたりが気づいていたか、西欧にかぶれた近代日本の作家たちのいくたりが、そこをはき違えてきたのであったか。

 五月二十五日から六月十日までの入院中に、肺ではなく、やはり脳の病変のどれかが動き出しているのかも知れないと推測される事件が起った。就眠中に、無意識で払い除けてしまったらしく、お茶のはいっていた急須が粉々に砕けてしまったのである。
「全然気が付いていなかったものだから、びっくりしたわ」
 と、家内はいつもあまり見せたことのない当惑した表情を浮べた。彼女の意識のとらえることができない何事かが、身体の内部で進行しているに違いなかった。
「割れて惜しいような急須でもなかったから、気にすることはないよ。新しいのを見付けて来よう」
 私は、慰めるつもりでそういった。そして実際、大学の帰りに巣鴨の地蔵通り商店街に急須を探しに行った。
 商店街という所で、私はもう何年も買物をしたことがない。まして巣鴨の地蔵通り商店街は、名にし負う「高齢者の原宿」なのだという。大正大学に移ったとき、この商店街が最寄りにあるという事実には気が付いていたが、まさか自分がそこへ出掛けて行って買物をするとは思ってもみなかった。
 都電荒川線の踏切りを越えた所から、商店街がはじまっている。辺りを見まわしたら、お茶を商う店は何軒もあって、その一軒の店先には急須が並んでいた。
「病院に持って行きたいので、適当なのでいいんだけれど」
 というと、女将らしい中年の女性が、
「それじゃこんなのはいかがですか」
 と、比翼の鶴が翔んでいるデザインのを選んでくれた。値段は千円だった。
 急須を手に入れてしまうと、折角ここまで来たのだからという気持になって、とげ抜き地蔵まで参詣に行った。確かに高齢者の多い善男善女に立ちまじって両手を合わせているうちに、涙が込み上げて来た。
 自分は何故ここで、こんなことをしているのだろう? もちろん家内が、恢復することのない病気に罹っているからだ。一分一秒と時が経つうちに、家内の生命は奪われつつある。早く帰って、病院に行ってやらなければならないのに、とげ抜き地蔵の境内で時を過ごしているのは、祈っているからにほかならない。してみると自分が、この私が祈りを信じているのだろうか。
江藤淳「妻と私」

 明確に江藤淳の文章であると同時に、明らかに批評家の書いた文章である。
 このような文章を読むと――江藤の場合、戦後に書かれたエッセイ群もそうであるが――批評精神というのは一体なにであったのか、自分は右だ左だとレッテリ貼りをした上で、言論なるものをこしらえ、論戦なるものを興じている、……否、そのことに、ケチをつけるつもりはない。ないのだが、そうした俗事とはべつに、そしてまた言論なるものからすら、隔絶をしたところに置いてなお、どこまでも追いかけて生き残ってしまう本物の批評精神というものがあるのだと、テクストにうちのめされながら私たちは、知らしめさせられるのである。「五月二十五日から六月十日」「値段は千円だった」と正確を期している批評家的な意識と、その意識が、ともに生活を作ってきた妻の死によって今、まさに崩れようとしているこの時の、この時であるからこそ鋭利に輝いてしまう、「この私が祈りを信じているのだろうか」という純粋に過ぎて立ちゆかなくさせる自問。
 愛なるものが何であるのかなどだれにもわからないようなものであるが、このように並べた時、いかに散文なるものの、愛する者を愛するほどに、それを文字によって捉えようとするほどに愛から離れてゆくのだったか、死の手触りをなんとかテクストのなかに織り込もうとするほどに、――たしかにそこに愛の、死の香りは漂いこそすれ、そこから尻尾をむけた、作家性なのか、男のなのか、優れた文章を書くものたちの、としかいいようもない、その気儘さがなんと濃厚に、炙り出されてしまうのだったか。