本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我」――志賀直哉、「トラウマの過去」、「定刻発車」

 志賀直哉には今でいうボーダーラインパーソナリティ障害的な気質が、多分にあったのだろう。彼の筆致自体は落ち着いているのが、おもしろい。物事をラベリングするかのように、気分で白か黒かをつけてしまったり、唐突に「キレる」ことをしたりするのだが、その自らを観照せんとする淡々とした筆のはこびが、ストイックな、削るところを削ったのだとはっきりと分かるような明確な文体を生み出し、その端正な文体ゆえ、日本文学史上かつてないほどの崇拝者を輩出した作家でもある。ならば、やはりユニークな作家といえるだろう。たとえば「暗夜行路」であれ「和解」であれ、彼は、不和であった父と和解をするその経緯を書くのであるが、それが論理でもない、むしろ論理というのは裏腹の何かによって、「和解」が成立してしまっている、つまりは読めば読むほどになぜ仲直りをしたのか、が、分からなくなっていく。
 志賀直哉を読みなれた読者に、このような書き出しは、またか、と一笑をさせられるたぐいの文章だろう。

 山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へと出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に云われた。二三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢出来たら五週間位居たいものだと考えて来た。
志賀直哉「城崎にて」

 志賀直哉の小説に電車が出てくるとかならずそこでは悪いことが起こる。事故に遭ったり、かみさんを線路に突き落としたり、といったことである。であるから、近代的な装置が、そこで情動の流れのごとき何かに働きかけている、という点でみても、志賀直哉という作家は近代を象徴づけるなにほどかの書き手であったのかも分からない。
 人文系の問題圏からみて、私がとくに鉄道の成立、と関連づけて重要と思うものがふたつある。鉄道は鉄道のほかに、おもにふたつのものを発明した。ひとつは「モラトリアム」(エリクソン)。もうひとつが「トラウマ」である。トラウマというものを精神分析的なといおうか、人文科学的なレトリックをつかって、(実際に斉藤環氏などがそのような言い方をするのだが)「過去が反復され、現在の可能性が衰退をする」状態、トラウマ的出来事以来、ある停止した時間のなかを生かされるかのごとき状態、がそれであったとしたのならば、それは必然的に「モラトリアム」と関係をもつであろうから、両者は互いに近縁関係にあたる、ということになる(こうして書き起こしている私自身が、トラウマサバイバーとしてそれを支持するかどうかは、また微妙なのであるが――)。
 鉄道がトラウマを発明したのだ、とする論文の記述を以下に引いておきたい。

 トラウマ的出来事としての鉄道事故は、トラウマとトラウマ性疾患に関する一九世紀中後期の医学および法医学の歴史を理解する上で重要である。実際、心理的トラウマについての近代西洋医学の理論は、ビクトリア朝中期のいわゆる鉄道脊髄症という病態への臨床家の取り組みによって始まったといってよい。この病態は鉄道事故には遭ったけれども別に負傷をしているようにも見えない、健康な人間に生じた多彩な身体症状を特徴としていた。多くの一九世紀の外科医たちはこの病態の研究を通じて、「恐怖 fright」「ぞっとする恐怖 terror」「感情的ショック emotional shock」などと呼ばれた心理的な要因が身体的症状を生み出すことについて研究を始めた。これはフロイトとブロイアーが『ヒステリー研究』でこの問題に取り組む三〇年前、そして第一次世界大戦の兵士たちのシェルショックが「精神神経症 psycho-neurosis」の実在を広く認めさせた半世紀も前のことである。
ヴォルフガング・シェフナー「出来事、累積、トラウマ」『トラウマの過去』

 現代においては、トラウマが関心を集め、またそれと強く関係をした解離が注目されるにつれ、フロイトではなくピエール・ジャネがリバイバルをされる、という現象が起こったが、それはまた別の話であろう。日本におけるトラウマ、解離研究の第一人者である岡野憲一郎氏は自己愛トラウマ、という概念を提唱しているが、恥と自己愛による傷つきもまたトラウマとなるのだ、という言説に依拠していえば、ある意味では鉄道よりも「加速的」な速度をもつインターネットの発明も、インターネット空間それ自体の発明と同時に、新たな傷つきを発明していたのであったかもしれない。

 どうあれ、インターネット的な加速感、スレッド感を、現代日本文学では舞城王太郎海猫沢めろんのような作家が、よく表現をした――とされるのだが、だれであれ現代人というものが、デバイスや、デバイスがもたらすある種のインヒューマンな感覚と、無縁であれないのであったとしたのならば、その豊かさというよりは、自己不全感――それは現代日本文学の圧倒的な不作の状況に代弁されているのみで、文学作品に、未だ十全に表現をされて来てはいなかったのではないか。
 鉄道というもののいかにダイナミックで、劇的であったことか。トラウマとまでいわずとも、筆をとりものを書いて来た近代の小説家たちの多くは、大抵は不安神経症患者じみた顔色をしていたものだったし、それでよかったのであろうとも思われる。一面的にみれば、そうでなければ日常を取り巻くテクノロジーへの感度が乏しかったのだ、ということになりかねなかった、その謗りがある程度の正当性をもっていた筈だ。
 三戸祐子定刻発車」は、現代にまで通じる日本の鉄道システムを、日本はなぜ迅速に取り入れることができたのか、という問いに答えて興趣に尽きない名著である。そのなにげない問いは、そのまま日本における近代とは何であったのか、という難問と向かい合う筆者の構えを用意させており、日本という国のいびつさ、ユニークさが論旨の進行とともに炙り出されていく。

 江戸時代の時鐘システムは、今日のように一日を二四時間に等分割する「定時法」ではなかった。日の出から日没までを昼、日没から日の出までを夜とし、それぞれを六等分して「一刻」(約二時間)とする「不定時法」である。季節により昼の長さや夜の長さは変わるから、不定時法の下では「一刻」の長さは季節によって変わる。それでは列車の運行は都合が悪い。だから明治の日本は、鉄道を走らせるためにも、新しい時刻体系をまるごと外国から輸入しなければならなかった。
 日本の社会が太陽暦とともに正式に定時法を取り入れ、今日のような時刻体系になったのは、明治五年十二月三日(太陽暦では明治六年一月一日)。ちょうど鉄道の開業のすぐ後である。明治政府は、この時刻制度を啓蒙活動もしないで、わずか一
カ月ほど前に告知してすぐに実施した。
 鉄道員たちは時刻制度が正式に変更される前から試運転を繰り返していたわけであるから、「分」単位の時間感覚を日本で最初に身につけたのは、イギリス製の時計を手にした鉄道員であったろうといわれている。
 こうして日本には、鉄道とともに突然に西洋の時刻制度が入って来る。
三戸祐子定刻発車

 私も今まさに、このようにネット上に文章を掲載している、そしてまたインターネットが普及をしていくのをじかに見ていた人間なのであったが、――はたしてこれが、一体なにであったというのか。つまらない道具であると切り捨てるのは簡単至極なのであったが、書き言葉に大いなる影響を与え続けている深刻ななにかであったのだと、捉えることも、あながち間違いではなかったはずなのである。