ひとが合法ドラッグにハマるのには、ドラッグに手を伸ばす以上、そこにはもともとは強い動機があったはずなのだ。と、そうしてみよう(敢えてここでは酒に合法ドラッグ、という強い呼称を授けよう。なぜならばこの記事は禁酒宣言の記事なのだから)。
私の場合には、人生などというものはろくでもないものなのだといった人生観や、この世界などというものは救いようのない地獄なのだ、とでもする世界観、それらが醸成をする、ある種の雰囲気や、気分、情緒といったものが、酒を飲む際について廻る、前提であり土台のようなものになってきた、そうおもっている。なにせ文学徒であるから、そうしたファジーな雰囲気に凭れ掛かることは、得意でもあった。
飲み過ぎる人びとにあっては、どんなひとも、そんなところなのではないか、根底的にいってドラッグの眩惑の誘惑に、人生観であり世界観が、関与をしていないはずもない、という言い方もできたはずだ。
(都会のひとだと、別だろうナ。都会生活の場合は、街歩きの快楽、あるいは街が好きだという快楽と、酒の快楽とが、イコールで繋がる部分がある。私にせよ、もしも今現在が福島の地方市街地に在所をおくのではなくして、銀座のど真ん中に住んでいたのだとしたのならば、いじましい人生観、世界観というのとはべつに、散歩のように、サンボアのジン・トニックを飲んでいられたわけだ。――だが、ここは福島だ。サンボアもオーバカナルもなく、焼き鳥居酒屋ばかりなのだから、その話は例外であるとしよう)。
どうであれ、たしかに人の世は生きれば生きるほどに生きづらく、生きづらいのは周りの人びととの軋轢や、折衝があった、そしてあった以上はこれからもそれが起こるのだと想定されるからにほかならない。そうしてまた世界が壊れている、狂っている、というのも、こんにちの世界の情勢や、さまざまな現象を表面的に追っていくだけで、そうだと断定をしておくに、しくはない、と云ってもいいほどのものなのだ。これはプーチンの戦争をみるだけで、充分なひとには充分なのである。
人間は救いようがない。そのとおり。
世界は狂っている。それもそのとおり。
人は年輪を重ねるほどにその実態を、まざまざと知り、精確にどれくらい救いようがないのか、狂っているというのか、地図を描くことなど放棄をしなければならなくなる。それほどまでに世界は無惨であるからだ。そうしてその解体の進行の分だけ、酒の味は味よくなる、という仕組みがそこにはある。もちろんこれは医学的な仕組みでも、なんでもない、いわば人生論的な仕組みである。
さて、私は、金輪際、この正当性を、自ら引き受けるものとして却下する態度を採用していきたいと考える。
私の場合には「トラウマ」という人生における一般的には例外的とされる事例にされされて、それがために時間をおよそこの歳にいたるまで、徒費して来てしまった、その恐れと実感とが大きいのである。私には私のやりたいことが、昔から定まっていた、だがそのために用意された時間を、むざむざと「トラウマ」は奪った。地方では治療が困難とかんがえて東京のクリニックに通いはじめたのが三、四年前、そこまでしなければ「トラウマ」の問題は解消されてゆきはしなかったほどだった。「その時間というのは殺しのプロだ」と、私がリスペクトをするラッパーは唄っている。私にとってその時間というのは、虐待者が奪っていった時間、でもあるのだった。そして人間は救いようがない、世界は狂っている、という私個人の、実存的な認識のなかには、かならず、その虐待者がキーパーソンとして現れてしまう、つまりは酒を飲むということは、虐待者のことを自らの背後に招き寄せてしまう、ということでもあったかと、私は酒というドラッグがいかにドラッグであるかを啓蒙する本を読むなりするうち、勘づくようになった。
去年、日比谷で観たフランス映画に「ぼくは君たちを憎まないことにした」という映画があった。最愛の嫁さんを、テロリストによって殺され、赤ん坊と二人、取り残されて生きることになった主人公である旦那は、テロリストたちに「僕は君たちを憎まないことにした」と宣する。憎しみという感情のリソースを割くに値しないのがテロリストたちであったから。いかなる感情も、与えるべきではないのが、テロリストたちなのであり、自分は君たちが今なにをしていようが、逮捕をされようが、されまいが、子どもといっしょに普段通りの日常をくりかえす。丹念にアイロンをかけるように、椅子にペンキをよく塗っていくように、ただ、ただ、くりかえすこと。
これはフランス的な、一貫した姿勢だろう。フランスは国家としても、テロリスト達にたいして一貫してその態度を採り続けている。
それこそが、敢えていえば復讐で、「ぼく」が「ぼく」になるための、スタンスなのだ。
禁酒をする私に、私はそのスタンスを重ねてみている。虐待者たちとともに飲む酒などは、たとえ菊正宗であろうが、私の大好物としてきたオーバカナルのパナッシェであろうが、一滴もない。きみたちのことなどは、知らないのだ。
付け加えて、病院、というものは、がんらい権威的で、出しゃばっていて、ひとの勝手都合も知らなければ、人情も知らない、――そうした一般的な見方、というのがある。ならば、作家が病院に通い続ける、という事態には、なにかしらの言い訳が必要なのではなかったか。
事実のところをみると、岡野憲一郎先生と、カウンセラーの先生の治療によって、私は多くの手札をもらってきた。どれも有益なカードばかりだ。幾分かカードはかさばってきたかもしれない。ならば、クリニックに通い続けてしまっている情けない人間として、ひとつのイベントを拵えることには若干の意味が生まれるかもしれない。さて、新たなフェーズに入ってみましょう、ゲームはどうやら続けていきましょう、とカードを切って、場に棄てる、そのカードこそ酒、という文字が記された道化師なのである。