本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

解離性障害と私たち(第一回)

 生まれてはじめの記憶をありありと覚えているが、それがいつ頃のことであったのかは分からない。なによりも私がそれを回顧をして、不可思議の念に打たれるのは、ありありと、の部分の逆説的な、構図である。そのはじめての記憶のなかで、私は自分が毎日、満足に食事も与えられずに、空腹でいるのを知っていた。そしてまた、自分が今、目覚めたところであるのを知っていた。
 すべては夢のなかのような非現実感に染め抜かれていて、また目覚めてしまったのだというどっしりと重たい、そのひと抱えで常人ならば憂鬱症になるであろう、絶望の感覚が私の身体を、動かなくさせていた。金縛りの状態というのに近しく、実際に四肢を動かすことができないのだ。
 首だけを動かして、自分が位置する寝室から、庭を見渡すことのできる窓越し、そこに植わったチューリップの朱色だけが、ぽつんと色彩として浮いているのを私は、みていた。世界はその花のほかは、非常に重たい質量を備えた非現実感を示す、灰色であった。語義矛盾のようだが、非現実感こそがかぎりのない重たさを有する時がある。
 たとえば、それは、絶望をしている時。試験に落ちた時。大事な人間の死に際した時。その時に、盤石であったはずの日常性はもろく崩れ、現実は非現実的となるのであったが、心の中心を占める感情はかぎりなく重たげにしている。
 私はそのようにして目覚めた。絶望に包まれて、花をみていた。そしてその続きがどうなったのかはまったく記憶にない。

   ■

 それからまもなく、これもまた「物心がついた」というほどの持続性をもたない、ぶつ切れの記憶の断片なのであったが(そう、ちょうど夢のように)、ある一時期に、夜中、そして朝がくるごと私は毎朝苦しんでいた。
 私の一家はみな、鼻炎持ちであった。子どもの私は就寝時、鼻呼吸ができずにパニックに陥って、呼吸困難となり、夜、その症状によって起こさせられねばならなかったのだ。だいぶ長いことそれは続いていたとおもう。眠気もともなって、意識が薄らいでいるなかでひたすらに、息が苦しい。
 ――こうした傾向は、私に「死」の存念への親近性を、幼くしてたしかに、与えていたと思う。それがいわゆる強い不安感を引き連れた希死念慮となることもあった。
「苦しい」
 と夢なのか現実なのか判然としないまま、蒲団のなか、私はかすれる声で訴える。
「かわいそうねえ。見ていてやり切れなくなる」
 と母は言った。
「口で息をしろ」
 と、父が粗野な大工らしいことを言った。
 そう言われずとも、私はいずれ口で息をするということを学んでいくことになる。