本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「岸辺なき流れ」について

 ヘンリー・ダーガーに「非現実の王国で」という世界一長大ともされる小説があって、翻訳大国日本で、いつかこいつが日本語で読めるようにならないものか、と思っている反面、開くことがなくてもいいのではないか、とも感ずる。
 なんならば、そのwikiペディアなどというものを思いっきり無責任な態度で閲覧をして、ぞくぞくとする、その期待の感覚、私が「読めるようにならないものか」と感じるのはその期待と、なにかわけの分からないものに対する、ぞくぞくとした感覚、いうなればすでにして先取りをされた二の腕のトリハダこそ肝要なのである。
 長大な書物というのはその分厚さ、外観の異様さだけで、ひとを惹きつけるものが確かにある。――野間宏の「青年の環」や埴谷雄高の「死霊」のごときは除いて、の話だが。
 ハンス・ヘニー・ヤーンの「岸辺なき流れ」も、その先取りをされたトリハダから、ひっ掴み、半年もかけて読んだ、読了をしたのはカンカンに照った夏だった。
 サイゼリヤでも、クラブハウスの楽屋でも、バーでも、どこでもあのクソ分厚い国書刊行会の煉瓦を私は、携行をして歩いていた。そうでもして自意識を棄てていなければ、到底、その本は読み尽くすことなどはできなかったからだ。
 未完成で、失敗作ともとれるその小説は、だが、巨大な空洞を私の胸ぐらに空けたというよりは、それ自体が空洞であり、あの小説について考える時、私は小説としての空洞にか、空洞としての私にか、そんなものに向き合わされている。そうして夏が来ると、ああ、また「岸辺なき流れ」の夏が来た、とあの夏以来、おもっている。