二十代の貧乏していたころ、ドサ回りの贔屓の落語家を追いかけて千葉や、山形に出向いていっては、あれ、チケットをとったはいいものの金がないじゃないか、となったりして、一番安い雑魚寝の宿で、カップラーメンに湯をそそいだり、DJのしごとで東京に出ては、やっぱり金がなくって、銀座で「メゾンエルメス」やらの画廊巡りをしては「ジャポネ」の列に並んでいた、あの思い出の密度。今でも、金をうなるほどに持っているわけでは全然、ないのだけれども、あの密度を密度としてかえりみられてしまうくらいには、そこと距離感が置かれて、すると、たちまち、当時がなつかしくなる。
あのころのほうが色々なことに必死だったのではないか、と焦りの感覚をもつ。
最近も「ジャポネ」でメシを食って、それは、ふつうに旨い、旨い、といって食っていたわけだし、いうなればなんら心境に変わるところなく、あのシャンシャンと炒めたスパゲティを食っていたはずが、ひとの歴史はそのようにして、いつも知らずに、変遷をとげている。なにも変わっていない、その平凡さを平凡さとして捉えて、愉しんでいるだけなのに、過去は表情を変えて「いや、きみは変わったのだ」とある瞬間に、こちらに宣してくるようになる。
もちろん、それでも私たちは相応に前向きになって生きていくしかないわけだし、たとえ、もとのように貧乏になったころには、その貧乏の肌合いはきっと、過去の輝かしいそれとはまったく、ちがって、眼前の貧乏としてピリピリさせられるだけなのだ。それにしても、「今」の地点においては、金をもっていたころの季節なんどよりも、金に窮していた季節のほうが、香り高く、誇らしく、目に映るのはなぜであったか……。