想念は、いつも清らかさを裏切らないものだから、私たちの生活はイメージを思い描いてしまえばしまうほどに、みじめたらしく、猥雑で、自堕落だ。紙くずが畳の上に散らばり、コーヒーカップの内側はたいていは黒ずんでいて、抜け落ちた髪の毛は、フローリングの床の上にはしたない軌条を描いている。どれだけ綺麗な音楽を流していても痰が絡まった咳は、些少な身体的反応としてやみがたく放たれねばならず、人間は人間として生まれた以上は、便所を汚し続けていなければならない。思い描いていた想念の、理想の、あの清らかな世界をつとめて把持していれば、いるほどに、私たちはそこから滑落をきたし、この不可思議な、生き物くさい地獄に日常性の名前を与えて、より明確な地獄のかたちを与えていかざるを得ない。私たちが朝を迎えて夜、ねむるまで続くこの混乱と猥雑に比すれば、死という石の如き一個の事実、それはこの地獄の喧噪に対して静か過ぎ、地獄を描いてみせた筈の「表現」はあまりにもスタティックに過ぎる。額縁が、絵を殺し、文字それ自体が、文章を殺す。だが幸いにして、それらはモノではない。テクスト論者の真似ごとはよそう。
時間の運行をともなって確実にやってくる、死というありありとした殺意、それに捧げた熱い、心の真ん中からの、殺意に対する殺意がペンをつかむということだ。
ペンの使い手のマネ事はやめにしろ、なぜならそれ以上己の無力さに
耐えられるか、全てを賭けれるか、勝てるか、待てるか、ここに立てるのか
ブルーハーブ「ペンと知恵の輪」
私たちは人間として受肉をし、そして、受難はかならずしも苦難ばかりを意味しはしなかった。呪縛は、祝福でもたしかにあった。女たち。嫌みな給仕たちの振る舞いを目に愉しみ傾ける甘美な酒。レコードの針音。信頼できる友。
師匠は成長はゆっくりとやって来る、と書いていた。
そういうことだったんだ、とうす寒い、不安な昼の縁台の上でもの思う。
私のその理解では、成長の多くは悪い成長、ゆがんだ成長のしかたであり、その枝葉を切り落としながら、正しい成長を自分で見とどけ、守らなければならない。死守しなければいけない。
正しくなければ意味がない。
優しくなければ価値がない。
ねがわくば、私の透徹はより深く、深くへと、おちていき給え。