世界社会という概念の意味に疑問を呈するだけの理由は、十分にある。しかし、経済がグローバル化し、政治が国家の枠を超え、世界規模のコミュニケーションが日常的現象となっていることに、疑問の余地はない。だから、私が言いたいのは、こうである。ポストモダンという形で省察され、確認された現代(以下、モデルネは、原則として〈現代〉と訳す)とは、世界コミュニケーションの時代にほかならない。それは、もはやプロメーテウス(生産)の時代ではなくヘルメース(コミュニケーション)の時代なのだ。
世界コミュニケーションの時代を特徴づけるのは、何よりも、知覚の対象が〈世界〉ではなく〈コミュニケーション〉になるということである。世界とは、コミュニケートされるもの一切にほかならない。それは、現象学における世界(生活世界)概念、つまりフッサールのいう「体験されたものの在りようとしての世界」とは違う。それはまた、(本書が以下においてシステム理論に追うところが多大であるにもかかわらず)システム理論の世界概念、つまりマークされず[観察されるべきシステムがその環境から区別されず]、したがって観察不能である状態としての世界とも違う。それらとは違って、われわれは、コミュニケーションが及ぶ範囲として、世界を理解する。
ノルベルト・ボルツ「世界コミュニケーション」村上淳一訳
矢継ぎ早に展開をする論旨に、目眩を覚えさせられながら、つい同化をしてしまうことにこのテクストの快楽があるが、ボルツ自身の企図もまさにそこにある。つまり読者に、考えることを促すのではなく、脅迫的響きのうちにテクストの強度を叩きつけ、挑発をし、テクストのビートに読者を乗らせること。乗らせるということのうちに、「世界」の肌合いを読者に確認させるというよりも、認識を強制をさせること。否定しようが、おまえは、このリズムにノッてしまっていたではないか、というような。
たしかに、SNSなどにかまけていると、「知覚の対象が〈世界〉ではなく〈コミュニケーション〉」になったかのような気分をもつことがある。自分が、ではなくとも、なにか一日中ネットにかじりついているようなユーザーがドジを踏んで「炎上」しているのなどをみると、それは一面的には真実であったか、とも思われる。それはたしかなことなのだ。だが、著者の、テクストの強度をインフレーションさせんがために繰り出される論調には、唖然とさせられる、すでにして(というよりも発表された当初からしてそのように受容されていたのだとも思うが)古色蒼然としたものが湛えられている。
世界がコミュニケーションとなるためには、インターネット空間を私たちの眼前にもたらしている光回線では、どうやらまだ不足のようだ。タブブラウザをしこしこと駆使をしてブラウジングを、すればするだけ、私たちはインターネットの「遅さ」によるフラストレーションを覚えさせられる。また、ボルツは知識というものはすでに必要がなく、いかなる者がいかなる知識を所有しているのか、そしてその識者のうちのだれを信じるのか、その「信頼」のみが重要なのだ、と言うのであったが、それも、たとえばコロナ禍などにおけるおびただしい陰謀論者の数々をみさせられたあと、すでにして底がしれた、ありきたりな構図である。どうであれ信頼をするためには知識が必要であり、さらにいって知るということは「1+1=2」を知る、ということであってさえ、それを「信じる」ということなのである。ボルツの言説は戦略的に知識や信じることをめぐるそのプロセスを、インターネットの「速度」のごときものによって振り落とそうとしているが、テクストの強度の代償として、要するにそれがインターネット黎明期に書かれたSF的読み物であるという、大筋の見方を、免れえないのではないか。
ボルツの前にはカトリック的な中世が念頭にあったマクルーハンが、そのメディア論のなかで「地球村」というタームを作り上げていたわけけであるが、
世界はまだ、地球大の村になるにはだいぶ距離があるようだ。生活スタイルやメディアに接する手段や機会、物質的な側面など、いまだに世界ではいろいろな格差がある。だからマリ共和国は、カナダとは違う。マリの住民の大多数は、カナダの住民のように福祉を享受したり発展の象徴たるものに触れたりしてはいない。同じことが島についても言える。メディアへのアクセスを例に取ってみよう。発展した国々の島では、多くの人々が新聞の朝刊と夕刊とを読み、小さくともよく管理された森の木まで犠牲にした日曜版さえある。テレビは、ケーブルや通信衛星でつながれ、一〇〇を超えるテレビ局があり、その中には二四時間放送を行なうニュースチャンネルもある。ニュースやコメントや情報を聞くためのインターネットもある。多くがテレビを持っていて、一ダース以上の局の番組を見られる。つまり彼らが操れるよりも何倍もの情報を、こうした島の人々は持っているのである。
これに対して、キリバスではどうか。ラジオ・キリバスというラジオ局が一つあるだけである。それも一日に数時間放送するだけで、英語とキリバス語とのミックスした、主にローカルな音楽や時に非常に古びた西洋のポップスを流している。ラジオ・オーストラリアのニュースの五分間ダイジェストと、それより短いニュースが英語とキリバス語で放送される。ラジオ放送は夜九時半までで、日中もしばしば放送が中断する。テレビ放送はない。新聞は、週刊でA4サイズ一二ページの『ウエケラ』紙だけである。国際的な新聞は、これも週刊の「マーシャル諸島ジャーナル」以外、普通は見ることができない。キリバスへの訪問者とキリバス島民自身は、世界のニュースの断片しか知ることができない。世界はまだ、ひとつの村ではないのである。
スティーヴン・A・ロイル「島の地理学」中俣均訳
稀代の「島マニア」である著者の論調は、至ってモデラートであり、島とは果たして一体なにであったのか、「島の島嶼性」をあらゆる角度から、緻密に検討をして掘り下げをしていく。
私が述べ立てたいのは、ボルツが間違っており島マニアが正しいのだ、というようなことではない。現今の政治情勢において台湾有事にそなえよ、とそれを憂いているものでも、少なくともここでは、ない。実際に私はボルツのテクストのロックな質感が一時期、好きで、その著作のあらかたを読んでしまったほどなのだ。
このようにして二つのテクストを並置をし、そしてまたイデオロギーを抜きにした時に残るのが、エクリチュール、だったのではないのか。世界をどのようにして感じ取り、認識をし、書くというのか。ボルツのテクストは文体のためのテクストであり、文体のための文体であり、それは私たちがインターネットに接している際の独特のスレッド感を、皮膚感覚の一面を、たしかに言い表し、文学的な修辞としてはじつに適切なことがままある。いっぽうで島についてのテクストは、基本的には、私たちのリアリティとは無縁である。キリバスという島を訪ねたことは私にはなく、著者の書くことのひとつひとつにふむふむと納得をして、全体の論調を、そこから浮かび上がる世界を俯瞰するようにして把捉してゆく。世界を動揺させようと震わせるその二の腕を映し続けているがゆえに、実際には、ボルツの世界はボルツの周辺とそこから浮かび上がるボルツ特有の文明観を書き表すのみで、スティーヴン・A・ロイルの筆致のほうが、じつは、描かれる「世界」のスケールが大きい。「世界」よりも「島」のほうが大きい、という事。あたかも、ヘンリー・ミラーとトルストイのちがいのように。
どちらが正しいか、正確ではないか――ということを抜きにして、それをセンスの問題として考えた時、ことは非常に厄介である。なぜならば、そのセンスとは、私たちの書き言葉に影響をおよぼし、世界に対する対し方、見え方も、あるいは情報に対する処理の仕方も、変えてしまっているなにものか、なのであったから。