食事することによってわれわれは自由をかちえている。ほんとうに旨いものと街で、出逢う時に、街がここにあったのだ、やっと街に出逢えたぞという自由さ快活さを感じとり、意気軒昂と世界の片隅を黒いインクで塗りつぶした心づもりになること。太い文字で私はこのお店を知っている、と墨塗りにしてのけること。そうこうしているうちに、私の頭のなかの地図は固有名詞でいっぱいとなって、本当の本当に旨いとおもっていたお店ですら、疎遠になることによって忘却の向こう岸に漂着していてしまう。まったく、年を重ねるにつれて街がひどくなっていくという酒場の話を真に受けたことはついぞなかろうとも、年輪をかさねるにつれて記憶力の衰えはいなめない。あの蕎麦屋の名前は、なんであったか……。思い出したら並木藪とかで、ああ思い出さなくたって、べつに、よかったや、となったりして。
文明の始まり以来、組織化された社会というものは、社会機構を機能させるために人間にプレッシャーを与え続けてきた。プレッシャーの種類は、その社会によって大きく異なる。あるプレッシャーは肉体的なもの(飢餓、過度の労働、環境汚染)であり、あるいは心理的なもの(騒音、混雑、社会の要求に沿って行動を鋳型にはめるなど)であった。過去において、人間の特質というのはほとんど不変であり、変化があったとしても一定の範囲内でのことだった。つまり結果として、社会は人々をある限界まで抑圧することしかできなかった。
タイム誌編集記者「ユナボマー 爆弾魔の狂気」田村明子訳
世界を変えることなんざできやしない。謂っていることは幾らまっとうでも、手段がわるい、などというバナールに流れるのも厭であるほどにはこの文明に対する宣戦布告は、理にかなっているのだったが、けれども世界への諦めのスパイスがここには足りていない。もちろん、足すことのできない人間だから、犯行に及んだわけだが。
愛嬌のある人間になるよう努めていた。私なぞは中学生のころにはスタンダールやジュネを読んでいたクソマセガキだから、文学、文学、と一辺倒になる自分が、いつも、恥ずかしかった。あなたはなにになりたいの、と大人が聞いてきて、小説を書いてみたいです、と答えるそのたびごと、そう答える自分というものとその疚しさ、恥ずかしさが、せんから無縁であったことは本当にない、とおもう。物書きというのはそれだから、特殊なしごとなのだなあ、というのはバカみたいだから止すとして……。小説って小説だけじゃあ、間が持たないというか、それではものにならない。あたりまえなのだけれども、世間についてなにも知っていないそのくせ文学の力、とかいっているやつ、イデオロギーにとりつかれた社会活動家みたいなものであって、その内実をみたしていくためには、とにかく、いろいろと動いているしかないや。それは食べ物をたべるということも一つであったかもしれないし、あと、なにか、あったか……。日に日に悩んでいる。