本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(十一)

 さて、神保町にふれておいて、うどん屋さん一軒だけを取り沙汰するのは、本好きとしてあるまじき態度である、といえただろう。なにせうどんはうどんなのだから。そして、なにせ神保町は、神保町なのだから。
 この世界有数の古書街についた私たちは、矢口書店の本棚に圧倒されてまもなく、ワゴンだけでどっしりと重たくさせた紙袋をたずさえて街あるきをするうち、飲食店にも事欠かない街である、ということに思いをいたらせることになる――なんだかこれでは「はとバス」の添乗員みたいな物言いだけれども。

「ガヴィアル」

 いっぽうには、「ボンディ」を代表格とする欧風カレーがある。フレッシュなじゃがいもを、どのタイミングで食べるのか審議を重ねつつ、食べるタイプのもの。日本を代表するナショナリスティックなまでの欧風カレー。

「キッチン南海」

「まんてん」

 そして古書街という性質上、学生があつまる街であるということがてつだって、安価なカレー店がもういっぽうにはある。「キッチン南海」のカツカレーは私が神保町をはじめて訪ねて以来の長い付き合いであるし、もっと買い込み過ぎてしまったのだ、という向きには「まんてん」のカレーがある。ここのカウンターで幾分かの悲壮感を背中にただよわせながらいただくカレーも、充分、味がある。なにせ神保町を歩いてきたばかりの私たちなのだ。そこでいくら散財したのか、本の収穫、みずからの選定眼を誇るような偉大な心持ちが、料理の味をもかえることを、私たちは知っている。この手の安価なカレーの味わいは、そのようにして、協働でつくられてゆくものだともいえて、だから、いつまで経っても、やめられない。

「黒須」

 近年ではラーメン店も隆盛をしている。ミシュランもとった「黒須」はありがちな和風の内装のなかでも凝った内装であり、出てくるラーメンはこれは、という天下をとっているようなラーメンで、シンプルな醤油の見た目のラーメンのなかでは東京でも上からいくつか、というまざまざとしたラーメンであった。そこは今年、閉店をしてしまったけれども、勝本のつけ麺は流行をいち早くおさえた清湯のつけ麺で、清涼感ある食べごたえはつけ麺のなかでも大当たりの一膳。さらにラーメン二郎の分店のなかでも特に評価が高い二郎の神保町店があり、ここは化学調味料の主張をひかえめに、あくまでも豚からとったスープの持ち味を重視をしていて、盛りの良さまでついてくる。
 これらのラーメンを食べにわざわざ来た若い人たちが、ついと、百円の本から未知の世界を見出してくれれば、この国の品位は大いに向上をしそうなものなのだけれども……。それに、せっかくの神保町、やっぱりカレーだよな、という思いはついてまわる。

 どうあれ。
 読書家である私たちはごっそりと収穫品を得ることができた。この大荷物をかかえてラーメン店に入るのは億劫だ、というよりももうカレーを食べてしまった、そこで現われるのが「さぼうる」をはじめとしたこれもまた、この街に発達をみた独特の喫茶店文化である。書物は重い、なんでこんなに重いのだ、……と林芙美子は「放浪記」で書いているが、ありがたいことに、私たちには「放浪記」のころの林芙美子よりは、いくらか懐があたたかい。
 編集者と作家の仕事の話。若者たちの映画談義。そうした話で雑然とするなか、ひとり収穫物のひとつ、ひとつを検分をしながら、コーヒーやビールを飲むというほんとうの至福のひとときを、だれしもがこの店で体験をする。まっとうなかたち、もっとも明快なかたちでの孤独。
 ピラフを頼むと、塩がところどころに散らばって入っていて、そいつをじょりっと噛むと塩味が感じられて、おいしい。
 これは私も最近知ったのだが、生苺のジュース。

 こいつがなかなかに、バカにできない。ちゃんと苺をつかっていて単純によくできているし、なによりも、シェイクのような粘度のある仕上がりになっていて、長っ尻をしていても大丈夫なようにできている。おもわず収穫品の艶姿に見入ってしまい、そのまま時間が刻々と流れていきそうな場合などに、重宝をするメニューということになる。
 気づけば、このために、読書などということを続けてきたのではないのかと、頭でおもわずとも身体じゅうの全細胞が喜悦に耽っている。それは、この食が、一軒の喫茶店が、読書家でしか得ることのできない、そして私が私のようであらなければ得ることのできなかった一回的な体験を賦活をさせてくれているからだ。読書の美しさ。食の美しさ。安らぐことの美しさ。このような幸福をたとえ、そのひとときにであれ、なにもないはずの宙空に描くことができたのだったから、人生というものもまんざらではなかったのだ、とすることができる。もちろん、メトロに乗って帰った先々で、まだまだいろいろな困難は待ち受けているのだけれども。