朝、同居する婚約者が休みのいちにちである。九時ころに起きてコーヒーを十時半の今に至るまでたえず飲み続けて、レコードプレーヤーからは盤質が悪く百円で捨てられていたカラヤンのシューベルトの八番を流している。カラヤンは好きな指揮者ではないが、レコードの音は好きなのである。それで、きのうから取りかかりはじめた小説を一枚進めてこの日記を書いている。ラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシーの「文学的絶対」などなど、読みたい本は文字通りに山積をしているが、読むことよりも書くことのほうが優先である。井伏鱒二だったか、が若い作家のもとに行くとかならず聞いたらしい、「今は読んでいる期間、それとも書いている期間?」。両者はだいたいにおいておなじ一日のなかに併置されない、というのが私が書くことのうちでまなんだ、というよりも幾度となく苦渋を舐めさせられてきた経験則である。アウトプット/インプットが両立をしない、ということではなく、書いているというだけで頭のなかが言葉でいっぱいとなり、そこに外部からの言葉を詰め込ませるキャパシティが情けないかな、なくなってしまうのだ。それでも読まなければならない時には読むのだけれども。