本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「いつになったら、世間のひとのように」――西村賢太、林芙美子

 子供ですら、スマートフォンを繰ってそれでゲームを覚え、サブスクをした家のテレビでストリーミングで映画を観、動画サイトやSpotifyで音楽を聴くようになった今、本の位置というのは、どこにあるのであったか。わが身を翻れば、その点、幸福であったのだ。貧乏な家庭で、幼少期より常に腹を空かせており、そしてその腹を空かせた子供が家のなかでの唯一の娯楽としてみつけたのが、――姉と十歳が離れていたことの恩恵なのだが、姉の出産祝いで親戚縁故から送られて来て、部屋のなかをそのころにも飾っていた、児童文学のシリーズひと揃え、いや、二、三シリーズも纏めてそれが置かれてあったか……それらの、書物にほかならなかった。
 身も蓋もなくいって、読書などというのはそもそも、貧乏人が愛好するようにできているのではなかったか。本当の本当に物理的になにもない、ゲームもなければ兄弟と遊ぶこともできないような、どん詰まりのところから、しいて「娯楽」として浮かび上がってくるのが読書という行為なのではなかったか。私にはそのように回顧をされてならない。今、インターネットを取り込み、ソーシャルゲームをインストールしたスマートフォンを離せないような生活のなかで、しばしば、自戒のようにしてそれを思いもするのである。
 実際の話として、貧乏な生活を送ってきた西村賢太の小説ほど、神保町が、つまりは古書が、本が、よく書けている小説はないであろう。カフェーやカレー屋が立ち並ぶ、新たな若者文化の発信地なぞではなく、世界有数の古書街としての、神保町の気配を。古書街で無頼派の作家の発掘をし、在野の研究者となって全集まで企画する、入れ込み方をした作家であるからこそ、それが書ける、ひとつ進んで、貧乏だったから書けたのではないか。

 「信濃屋」の戸を開き、カウンターの奥隅の席に陣取った貫太は、本来ならここで一杯の冷たいビールが欲しいところだったが、いきなり三百八十円を失ってしまうのは惜しいので、口あけから一合百五十円の合成酒を注文する。これなら四合まではいける(尤も当時の彼は、それだけ飲めば帰路に寛永寺橋の陸橋下の、自らの“吐きスポット”たる一角で、盛大に胃の中のものをぶち撒けるのが常だったが)計算である。
 ついで食べ物は、まずは一皿三百円のレバニラ炒めと、二百円の牛皿を誂えた。未だ育ち盛りにある彼は、やはり酒よりは腹ふさぎの方が眼目であり、このあとに二百五十円の鶏のカレー炒めと、同じく二百五十円の唐揚げを頼み、最後に百五十円のかけそばをすすろうという段取りである。
 貫太は、また読みさしの笹沢佐保を開き、“木枯らし紋次郎”の世界に没入すべく、合成酒にチビチビと口をつけてゆく。が、やはり初夏のこの時期に、常温の粗悪な酒はどうにも胸くそ悪く、結句これは一合でやめてしまい、次は三百円のレモン酎ハイに切り換えた。唐揚げコロッケ一個に変更すれば、あと一杯を飲めるはずだ。
西村賢太「跼蹐の門」(『歪んだ忌日』所収)

 いっけんして料理の名前がつらつらと並んでいく、どうということのない文章にもみえるが、料理の名前が値段とともに語られることによって、作者の「手持ち」の世界のなかに、その場かぎりの固有の、プライヴェートな空間に、料理が並んでいくかの観があり、固有名詞のひとつびとつに、それを美味しそうと感じさせられるのは私だけであろうか。「笹沢佐保を開き、」というのも良く、ここではその「美味しそう」というのは、書物の世界の美味しさ、ふくよかさと連綴されている。時に高価な書物を求めずにはいられないから手持ちに金がなく、金がないから本でも読むほかなく、そして金がないから逐一の料理の値段に目を走らせていなければならない。

「小父さん、今日は少し高く買って頂戴ね。少し遠くまで行くんだから……」この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいい笑顔を皺の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかかえて見ている。
「一番今流行る本なの、じき売れてよ。」
「へえ……スチルネルの自我経ですか、一円で戴きましょう。」
 私は二枚の五十銭銀貨を手のひらに載せると、両方の袂に一ツずつそれを入れて、まぶしい外に出た。そしていつものように飯屋へ行った。
 本当にいつになったら、世間のひとのように、こぢんまりした食卓をかこんで、呑気に御飯が食べられる身分になるのかしらと思う。一ツ二ツの童話位では満足に食ってはゆけないし、と云ってカフエーなんかで働く事は、よれよれに荒んで来るようだし、男に食わせてもらう事は切ないし、やっぱり本を売っては、瞬間瞬間(そのときどき)の私でしかないのであろう。
林芙美子「放浪記」

 書物を愛するということのはじまりが一体、どこであったのか、私にはついぞわかりかねるところがある。小学生のある時を境に、書物のほうが雪崩のように私に押し掛けて来たのではなかったか――勿論、そんな言い逃れは許されない、私の選択がそこにはあったわけであったが、しかしその選択は断じて、選択、などと云いうる、かっこうのついた代物ではなく、拘泥か未練か、自棄であったのか、……わからないが、多くの人びとが目の前を去り、感情が潰え、なにもかもが過ぎ去ったような人生の一瞬のなかにおいても、書物のみが、残ってしまう。それを幸福とでも思えばいいのか、またはその対極にある、呪縛とでもしておけばよかったのか。そのふたつの言い分であったのならば、どちらも正しいのには決まっているのであったが。

(バナナに鰻うなぎ、豚カツに蜜柑みかん、思いきりこんなものが食べてみたいなア。)
 気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。
 夕飯の支度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たりしている。秋江氏の家へ来て、今日で一週間あまりだけれど、先の目標もなさそうである。ここの先生は、日に幾度も梯子段を上ったり降りたりしている。まるで二十日鼠のようだ。あの神経には全くやりきれない。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
 私の肩を覗のぞいては、先生は安心をしたようにじんじんばしょりをして二階へ上って行く。
 私は廊下の本箱から、今日はチエホフを引っぱり出して読んだ。チエホフは心の古里だ。チエホフの吐息は、姿は、みな生きて、黄昏たそがれの私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。柔かい本の手ざわり、ここの先生の小説を読んでいると、もう一度チエホフを読んでもいいのにと思った。京都のお女郎の話なんか、私には縁遠い世界だ。
林芙美子「放浪記」

 わかっているのは、いかに、作者に自分を投影して書物を読みがちな青年たちが絶えずとも、あるいは単純に文学なるものにかぶれる者たちがかわらずに数多輩出されていようとも、「チエホフ」に就いていかに、私たちがさまざまな専門書や、伝記類を扱って、こんにち巧妙にそれを読み解くことができようとも、かくのごとき切実さのうちに「チエホフ」を読めるということは、ひとつの羨望に値する、ということだ。そして同時にそれは、「古里」の甘美が甘美である分だけ、幸福なことであったのか、不幸なことであったのか、幸福だ不幸だと単純化をしてもいいものだったのか――最初から最後まで、答えがみつからなくなる性質の、扱いかねる、所業なのだということだ。