アル中の父親とスキゾの母親の実家からはなれ、一軒家を借りて、凪のような平静の日々を送っている。実際には凪が凪いでいるほどに、大時化である。書かなければならない文章に追われては、自分の文章をつかまえて、のくりかえしで一日、一日をみっちりと埋め合わせていくうちに、日々はあっというまに過ぎてゆく。幹線道路を逸れた先の住宅地に位置する、4DKの一軒家には庭がついていて、執筆の合間、合間に烟草をのむために縁台に坐しては、夏の陽射しのふりそそぐ庭、なるもの、をみることになる。硬い土を耕しては肥料を撒き、腐葉土を求めてきて、ひとまずはと植えた日々草の機嫌をうかがう。
庭をもつ人にとって、今はいろいろと春の仕事のことを考えなくてはならない時期である。そこで私はからっぽの花壇のあいだの細道を思案にふけりながら歩いて行く。道の北側の緑にはまだ黄ばんだ雪がほんの少し残り、全然春の気配も見えない。けれど草原では、小川の岸や、暖かい急斜面の葡萄畑の緑に、早くもさまざまなみどりの生命が芽を出している。初めて咲いた黄色い花も、もう控えめながら陽気な活力にあふれて草の中から顔を出し、ぱっちりと見開いた子どもの目で、春への期待にあふれた静かな世界を見つめている。が、庭ではユキワリソウのほかはまだ何もかも眠っている。この地方では春とはいえ、ほとんど何も生えていない。それで裸の苗床は、手入れされ、種が蒔かれるのを辛抱強く待っている。
ヘルマン・ヘッセ「庭仕事の愉しみ」岡田朝雄訳
訳文は充分に健闘をしているし、文藻にも富む文章だが、この文章に、控えめにいってなにか空々しいものを私は感じとっていてしまう。それはそもそもが「庭仕事」、ガーデニングといったものに私がさして興味がない、どころかほとんど本能的な、反発を覚えてしまっているからにほかならない。それは、こぎれいな趣味に対する反発というのもあれば、今、ひとりの生活において自然というものを扱うことのナンセンスさ、といおうか、仕事ならざる営みとして土を耕すという営みによって、人間性のごときものを涵養しようとする、できると思いなしているかのごときその態度そのものに、疑義を差し挟まざるをえない、ということである。あるいは、単純にこの文章についていえば、ヘッセはヘッセだな、と言ってしまってはいけないことを思ってしまう、ただそれだけのことなのであっただろうが。
花の話を聞くたびに、思い返されるエピソードがある。いつものように長くなるが、ここに私はそれを引用しよう。
彼のお父さんと云ふ人は、俳句も作るし、園芸等にも趣味のある人だつたらしく、家のまはり等美しくバラで飾られてゐたりして、「海の見える町」に書いてある「垣根のバラを小樽の町に売りに出る」話が、その垣のバラなのであつた。
この俳句等作つたといふ、文学的方面が兄の整の方に伝り、園芸方面の趣味は弟の博の方に伝つたもののやうである。弟は後年、屋敷のまはりに花を作つて小樽に花を出荷し、梨を作り、広く葡萄の栽培もすると云つた方面に向つたが、多少の文学的傾向もあつて、北海道の場所がらロシア語などもやつた事があり、私も小樽の本屋等案内してもらつた事もあつた。
これに反して兄の方は全然趣味が異つてゐたやうである。私は田舎を離れて東京にゐても、土いぢりが忘れられない方だが、夏の日など近くの伊藤家を訪ねると、時によそからもらつたりして植木鉢等が二階の窓下の屋根の上に置いてある事がある。見ると大概萎れかゝつてゐる事が多い。
「おい植木が枯れさうだよ」と注意すると、
「その内に雨がふるだらうと思つてるんだがね」
と云つた返事である。どうかすると、仕方がないと、云つたやうに、客に出した土瓶の残り茶等をかける事もあつたやうだが、大方屋根の鉢物は枯れるのが普通のやうであつた。
「彼には人間の事しか興味がないのだらうか」と怪しみ、大いに植木に同情したものであるが、それに反して人間の心理の動きは、彼はその頃から求めて飽く事を知らなかつた。心理その物といふよりも、その頃のは心理の追求のしかた、むしろその表現のしかたに興味の中心が向いてゐた時代であつたやうである。
今になつて私は思ふのだが、これらの事は単純にその人個人の趣味では片付かない事のやうである。それは北国の厳しい自然の中で育つた人として考へなければ理解出来ないので、あまりに激しい自然の中で、人は「自然は自然のまゝに委せる外はない。その代り人間は人間の生きる事にだけひたむきになるのだ」と、さう云つた考へが起るのである。(中略)あの最後の一線で割切つた生活態度の現れこそが、あの一鉢の植木の生命に向けられてゐたのだ、「お前はお前でそこで枯れるのだ、仕方がない、助けてやりたいが、俺にはそのゆとりがないと」、私はその事に思ひ到らなければならなかつた。それにくらべると九州人の私等は、それこそ実にずるずるべたべたなのである。
蓮池歓一「伊藤整―文学と生活の断面―」
伊藤整の私生活は冷たいものだった。家庭のなかではまったくのダンマリ、妻にも、子どもたちにもなんの話もせずに、たまに口を開いたかとおもえばドスの効いた声で注意をするようなことをしか話さない。銀座のスナックに愛人をつくり、家人に読み取られぬように英字でその愛人との交流を日記に書きつづっていたのだったから、当然、夫婦の仲は円満とはとても言えない。息子の伊藤礼の文章にというよりは、娘の伊藤マリ子の文章に、事情は適切な質感をもって垣間見ることができる。
この伊藤整の古くからの友人の筆致は、親密さと適切な距離感とが相まっていて、伊藤整の読者にとっては好感がもてるそれである。北海道的性格というのは、それ自体で非常に興味深く、それが謎であるために深く詮索をすることがむずかしいのであったが、ひとまずは、ここでは「若い詩人の肖像」や「氾濫」の著者である伊藤整が、その作品に相応の、個人主義者であったということが重要であったはずだ。そのスタイルというのでもない、他人を他人として截然として区別をするという意志の力や、ただの距離感の踏まえ方によっては身につけられない、盤石の、異様な孤影があったがこそ、漱石の「明暗」を踏襲した晩年附近の生の三部作は書かれた。他者を、そして自己をすらも他者のごとくに突き放す姿勢があるがこそ、「心理」なぞというあるきなきかも底知れない、底流のようななにかを、捉えうる。「自然は自然のまゝに委せる外はない。その代り人間は人間の生きる事にだけひたむきになるのだ」。個人主義者が植物ぎらいとなる他ないのか、どうかは擱くとして、その個人主義の片鱗を垣間見たという意味合いであるとしたのならば、この友人の指摘は、正しいということになる。依然、「北海道的性格」と同様に個人主義の成り立ちも、謎ではあるのだが。