また、きょうから二百枚の中篇に取りかかる。
師匠。
師匠は、成長はゆっくりやって来るといったが、たしかに、いかなることも成長となりうる、そうだったのかもしれない――。すくなくとも私たちはいかなることからも学ぶことは可能だ。
だが酷く心ぼそくなるのは、小説を書くという営みがただ独りで遂行される営みだからではない、その闇には眼が慣れきっていて孤独はもう、孤独ではなく、自由であり、書いていない日々はただ私の身体を遣る方なくさせる、それだけだ。
小説を一本、一本、書き上げたということによって明確な成長を遂げたと、思いこむ自分を私は危懼をする、それをおそれる。
言葉、そう、ただ言葉という無機的な要素であり、単位のごときものを、扱い、処理をし、感情をこめたといったところで、そこから私の些細な人間的な変化が起きること、言葉をあつかい慣れるということはこれからも、何度も、何度も、何度も、何度も、起こるだろう。そしてそれがなんだったというのだろう。
くだらぬことだ。
そんな繊弱な、結句、弁明のたぐいなどは吐いていたくない、「文学」的な講演会に及ばれする作家先生にでも云わせていればいい、意図的に選択をした成長をしかみずからの成長の糧としたくない自分がいる。
私にはわたしの目指しているものがあり、それは師匠の後ろ姿と同様に遠く、遠く、遠い存在としてある。
ゆっくりと訪れるという成長の彼岸を彼岸として、ただ、向かい歩いていきたいのだ。些細な変化を振り捨てて、ただ、それ自体うつろな影でしかない言葉を日々、レコードに針を落としながら打鍵をして、貴方の言葉にちかづきたい。