もちろん、「驚き」を求めることが、ともすれば貧乏くさいことであり、却ってせせこましい料簡であるというのは、私は私なりに、知っている。ともすればそれは、飲食店に「特別」を求めるSNS時代の感性と同質のものとみられてしまって、誤解の解きようもなくなる性質のものへと、堕しかねない。
脳科学者でありベルクソンの熱心な信奉者である茂木健一郎さんは、驚くことが重要なのだ、そのためには美術館などに行って「オリジナル」な作品に触れることこそ、大事なのだ、とある書物のなかで説いていたが、美術館なぞというものはしょせんは美術館に過ぎないのであり、手に触れることも自室の壁に飾ってみせることもできない、安全圏からそれをみているのに過ぎないのだ、ともいえる。食べるというのは、それこそ口に運んで体内に取り込んでことができてしまうのだから。まあ、それはともかくとして、ひと皿に盛られた料理を口に運んでおいしい、おいしいと矢鱈と騒ぐことは、時と場合によっては許されることではあろうとも、時に自らの品性を損ねることになりかねない。
ある種のB級の洋食店(たとえば私がよく食べるのは高田馬場の「洋庖丁」)や、定食屋、新宿の横丁にある「岐阜屋」などといった酒飲みのための中華飯店は、「驚き」といったこと、または食、というものをあえて、ことごとしく取り立てて騒ぐ要のない、ひと心地のつく安定と秩序を私たちにもたらしてくれる。
アルミの皿なぞに美しく盛られたポーク・ソテー。それをこんなに美味しいものはないのだ、といって頬張ることの気持ちいい感覚。店の風情がもたらす優美な心持ち。
ベルクソン的な感動とはことなる、日常と地続きの風合いのうちに、悠揚として食べることの穏健さ。
とうぜん、背伸びをすることは大事であって来た。
話ベタであるというのに、敢えてオーセンティック・バーに入ること。とくに地方のバーなどというものは、席が空いていることが多いので、そうすると必然的に、隅に座るのはおかしいのでバーテンダーとの距離の近い席を、とらなければならなくなる(これはこれで、若い期間においては、幸せなことだ)。
給仕の嫌味な笑顔に迎え入れられながら入る、まだ分不相応なフレンチで、きりきりと胃を痛めながら食事をすること。
身の丈に合わない飲食店に若いうちに入ることは、若さのひとつの特権である。身の丈に合おうが合わなかろうが、取り敢えずはそこに入ることで、店が身体に幾分かフィットをして来る。あるいは、背伸びをしなければ背は伸びないのだといってみてもいいだろう。みながそうやって大きくなっていくのだ。