本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「コット、はじまりの夏」(☆☆☆☆)「ありふれた教室」(☆☆☆☆)

 武蔵野館で観た「コット、はじまりの夏」(☆☆☆☆)はすっごくベターな構図なのだけれども、荒廃した家庭に傷ついた少女が、優しい親戚の夫婦の家、べつのいきいきとした世界でしばらくの間、すごすという話。アイルランドだから、「アンジェラの灰」みたいな、もう本当の荒廃した家っていう感じなのだけれども、この映画がおもしろいところは、そこに救済なんてないよ、っていう話になっている。ネタバレというほどのこともないのだけれども、結局、優しい親戚夫婦のもとでしばらくの間すごす、というだけのことであって、帰らなきゃなんないのね。映画じたいは親戚夫婦とすごすハートウォーミングな世界を、捉えているのだけれども、最後には、「この世はやっぱり地獄だった」というほうへと、フォーカスが合っていく。もどらなきゃならない。「オデュッセイア」みたいなさ、故郷への帰還が、まったく誇らしいものではない、地獄が地獄であることを確認するために葬り去られるようなことへと成り下がっているし、「癒やし」を描くことによってむしろ「地獄」の救いようのなさが、間接的に、描かれている。やっかいなのはさ、現実って映画よりも悲惨で、……その地獄そのものが、絵にすらならないところがある。こういう描き方じゃないと、地獄って、捉えられないんじゃないかとおもわせてくれた映画だった。

 「ありふれた教室」(☆☆☆☆)も人間ドラマまたはサスペンスとして、どんどん真新しい展開が起きてくれるし、フィルムのサイズも合っていて、とにかく観やすかった。時間を忘れてちゃんと、映画の世界に没入させてくれる力があって、もうそれだけで満足なのだけれども、これもまたシンドイ、地獄の世界を描いている。いろいろな法律とか、規則とかいった表皮のむこうには、地獄が、現実があるのだという話にも、まあ、ひきつけて云うこともできるわけです。窃盗事件が多発する学校で、容疑者をみつけなきゃなんないんだけれども、そのためにカメラとかを設置するのも倫理的にオカシイ、とされてしまう、がっちがちに規則、規則で縛られているそのなかで、一体だれが犯人であったのか、すべてが両義的になっているなかで、視聴者の偏見や、独断が、試練にかけられる仕組みの映画になっている。その仕組みが必然的に包摂する弱さもあってか、結末部分はちょっと、アラがあるけれども、まあ没入して観させてくれる、という点で、いい映画だったか。