おもえばパンクって生ぬるい。
まだ、手ぬるい。
かもしれない。
ロックやポップスの原点にあるもの。
それを聴いても飽き足らないから、パンクに走る。
SHAM69、JAM、嶽本野ばらの「ミシン」のミシンちゃんといっしょ、オイ・パンクばかり聴いている十代から二十代の境目だった。
それでドストエフスキーやディケンズも読んでいたのだから、芸術のためならば幾らでも胃の中に入っていた、といったところだろうか。よろしい。
胃壁は無敵だ。
そうして、それでもまだ、……と(聴いて来たパンクやロックスの音楽よりもなにより)なにより、自分に疑問を抱いて、足りているのか、まだ足りているのか、として聴いた、パンクよりも狂っている音楽。
それが私にとってのクラシックだった。
それ以降、現代音楽と呼ばれるものを聴いていっても、基本的にはおなじだろうか。
クラシックの世界とは基本的に狂っている。
小説などを書いている人間だから(ひとりでものを作っている人間だから)、交響曲の世界よりもピアノ弾きやヴァイオリン弾きこそが、好きで、いまでもその癖が抜けきらない(それがゆえに、大勢の天才をあつめて一曲を弾こうとする交響の世界は世界で、狂っているという当然についても、東京のホールで知ることになるのだけれども)。
なぜ、なにゆえに、バックハウスのベートーヴェンばかりを聴いていてしまうのか。あんなに無骨といえば無骨、けして甘くないバックハウスのピアノにこそ陶酔をしてしまうのだったか。
あるいは、単純に、リリー・クラウスのころころとしたモーツァルトのコンチェルトの愉しみ。豊かさ。甘やかさ。
リリー・クラウスという名前を出すだけで私の口許はゆるくなってしまう、リリー・クラウスはなんで、リリー・クラウスでなければならなかったのか?
そして、グールド。
最初はグールドがわからなかったのだけれども、上野の美術館に通うようになって、そうして上野界隈の廉いとんかつの定食ばかりを食うようになっていって、初めて、グールドがわかるようになっていく。
グールドがどんどんわかっていく。
それでも最終的に行き着くのが、リリー・クラウスとおなじ時期に聴いたはずの、ハイフェッツのバッハ。
いまでも私はものを書きながらハイフェッツのバッハをいつもBGMに聴いているような感じがしていて、こまってしまうことがある。
困窮してしまう。
こまりはててしまうのだ。
あのリズムから自由になれない。
そうした制約と快楽を与えてくれるのが、私にとっての、クラシックであった。