シラフだからふと考えた。
死ぬことになった時にこのじぶんが食いたい、と云っているもんとは一体なんであろうか。
サッポロ一番でも食っていろ、というのは無しで。
オーバカナルのパナッシェなのだろうか。
病身かなんか、なのだろう、死ぬってこたぁ。
酒なんか抜けきっていて、そこに浴びる、あの細身のビールメーカーのロゴなんかが小粋に入っちゃってるグラスで飲む、琥珀色の酒。沁みるぜ、まったく。想像しただけで酔いがまわってくらぁ。
高価なウイスキーとかシャンパンなんかじゃなくって、スニーカー履いて飲んでいたあの酒がやっぱりこのじぶん、の人生のなかで鮮明に、酒、だったと思い返される……などとなにも、これから死ぬわけじゃねえや。
旨いもん食って来たなァ……。フレンチといやぁ、歌舞伎座の横に昔、フレンチの店があってね、魚も旨いし肉も旨い、鴨肉までもが、あまさずに旨かったもんだったけれども、シェフがいろいろあって栄転しちまった。
金をだせば食えるってんなら食いにいったるともおもえど、しかし文学徒なんざにはやっぱ手が届かないっていうのが、正味の情けない話でね。
銀座にはそういう、思い返すだけで垂涎もの、そしてなくなっちまった店っていうのがいっぱいある。
メゾンエルメスとかに行って、若いひとたちの絵をギャラリーでみてきたりしていたからね。あと、女性に宝飾品プレゼントする時には互いの身のためといわんばかりに、たいてい銀座で買うようにしているし。
そもそもが「死ぬことになった時に」という、敷かれた前提がもたらすのは、ある種の情調であり、気取りであり、美学の要請であったりするのだから、銀座、という固有名詞がここでぽんぽん身軽に出てきてしまうのは、しかたがないのだったか。
地元の飯屋に、味のようなもの、それというのは人生と一体となったような味、を求めてもまさに暖簾に腕押し、店のほうからそんなものはないのだと言っていてきかなかった。
とするとやはり食とは私にとっては第一に東京のものであった。
「ジャポネ」の旨味調味料を振ってしゃんしゃんと炒めた食べものにすら、その、今言った意味での、「味」がある。
その格差というのは、しかたのないことである……と、なにかしんみりとした落ちともつかない、嗟嘆で終わってしまうのは、食べものをめぐる私の冒険は、いつも嗟嘆で終わるからにほかならなかったから、か。