本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「実際は、決して、そのような希望が満たされることはないのだ」――伊藤整「新しい一年」

 新春の雰囲気といおうか、たたずまいといおうか、そこにつき纏うある種のイメージが、好きである。新春なのであるから、それは清澄なイメージに決まっているのであったが、その清澄なイメージとはしょせんは時計の針によって測られる、人間の愚かな錯覚のごときものでもあっただろう。どだい人間などすべて錯覚で生きているようなものだろう、とする私に、その錯覚は居心地がよい。
 その錯覚は、暗がりの路地をすり抜けていく真っ白い猫にでもなったかのように、私のことを感じさせる。または、春や夏の気配を感じ取り今年の春こそは、夏こそは、というたいして実りそうもない何かを夢見る一瞬のはかなげな感懐をもつ心情に、相似ている。どうあれ一月一日というはじまりの日を迎えたそこで、私は、なにかの変化を待つことの、若々しさに惹かれているのである。じっさい、なにがしかの若さを信じることもなしに、新年を祝うということを人はなしえたものだっただろうか?
 伊藤整は、表舞台では「仮面紳士」として川端康成であれ三島由紀夫であれ、その隣でニコニコと愛想良くしている人士であった。三島は自身の言動を批難された折にどこかで書いたか、言ったかしている、「伊藤さんのようにニコニコしているのも問題なんだぜ」。その通りであっただろう。だが、伊藤の私生活を覗いてみると、銀座のバーに愛人を作り、家族の皆を冷淡にあしらい、時に大声をあげて痛罵をするような、厄介な人間であり、そして優れた作家の通例にしたがって、細やかな自意識が過剰に働く人間であった。

 新しい年が来て、それを我々は「めでたい」と言う。私にとっては、この「めでたい」という気持は、まだ、自分の人間としての間違いや、仕事の失敗や、他人にかける迷惑や、恥や怒りや悲しみなどに汚されていない時間のはじまり、として実感される。
 この新しい年には、自分の仕事をなるべく立派なものとして成しとげ、恥かしい思いをする行いや言葉をつつしみ他人に迷惑をかけず、少しでもよいことをしたい、という気持で、生活をはじめる。その気持は誰にとっても同じようなことであろう。
 ところが、実際は、決して、そのような希望が満たされることはないのだ。我々は、正月の元日か二日のうちから小さい嘘を言いはじめ、他人の蔭口を利き、酒をくらって人を嘲笑したりしはじめるのだ。
伊藤整「新しい一年」

 はじまりが清澄であるのは、私たちがこの文章のようにであったか否かはおくとして、けがらわしく煩雑なものとして、つまりは正当に世俗を認識しているからにほかならない。そして私たちは、この世界に、世俗に投げ込まれてしまっている以上は、かつての大志や、かくありたいという信念のごときものをある程度は犠牲にして、生き続ける途上を選ばざるをえないのである。私たちは失敗をこさえ、迷惑をかけ、「恥や怒りや悲しみ」の虜囚となり、かつてあった透明な、清澄な響きのする、何かをそれらにかまけているうち、忘れてしまう。そしてそれは面倒なことに、完全にではない。その思念を残存をさせながら、忘れているがゆえに、酒にかまけた蔭口といった世俗の事象は甘美となり、益体なくなり、どうあれそれをクダラナイものなのだと認識をし、そしてある時にわれに返ったように自らの仕事を、本来めざしていたものを、白猫のように緊張した尻尾を携えて振り返る。